木登りが好きだった
今日は、サードステージの倉庫に間違えて、しまっていたいた小道具を取り出した
倉庫にはモノが溢れていて、小道具をしまったオリコンは奥の方にあって、通常は手前のものをすべてどかして(重いものが多くあるのでとても大変である)作業するのだが、今日はぼく一人だったので、仕方なく、モノとモノの隙間をぬい、よじ登るようにして小道具を救出した
狭いところを進むのがとても楽しいことであることを思い出した
思えば、小さい頃から狭いところが好きで、木登りも好きであった
なんだか狩人っぽくて、好きなのである
今日はお酒を飲んでて上手くまとまらない
とにかく、今日したような仕事があれば、即就職活動するのになぁと思った次第なのである
地元の祭へ
この街では毎年この季節、通称「椿祭り」が行われる
「椿さん」の愛称で地元民に呼ばれる伊豫豆比古命神社前の通りに屋台が並び、老若男女が参拝する祭である
ぼくが参拝するのはおそらく5年ぶりで、久しぶりだから俄にテンションが上がっていた
まず驚いたのは、参拝通りに流れているBGMが、当時とまったく変わってなかったのである
雅楽のような、いかにも日本の祭であると主張するようなあのメロディーが、未だに流れていたのである
これは5年前どころの話ではない、記憶しているもっとも小さい頃の記憶は、6歳の頃、親に連れられて参拝した記憶がある、そして当時からまったく変わってないのではないかと思われる
耳に音が入った瞬間、心の奥が震えるのを感じた、何も変わっていない、そんなことがあるだろうか、現代社会において、17年も変わらないものがあるだろうか
一方、屋台は少し変わっていた、時代の流れを敏感に察知しなくてはならない的屋は、変わらざるをえないのであろう
東京ケーキというなんの根拠もない名前のカステラは、多くがカステラと名を変えていた(もちろん東京ケーキのままの店もあるし、行きつけだった屋台は今年もあった)
くじ引き屋は景品のゲーム機を、箱の外面だけでなく内面を見えるように展示していた
ぬいぐるみのくじ引き屋が目立ち、多くがディズニーだった、ツムツムの影響だろう
しかし、詰め放題のフライドポテトの屋台には、相変わらず小学生が群がっていた、溢れてこぼれるほどポテトを詰め込んでいた
当たり付きのハンバーグ屋も変わらずあった(なんだそれはと思われるかもしれないが、当たりが出ればハンバーグ串をもう何本か貰えるのである)
そして当時はまったく理解出来なかった椿神社のマスコット的人形が、デザイン的にぐうかわな女の子であることも理解出来た、衝動で買ってしまった
変わって欲しくないものは変わらず、にも関わらず新しいものが見えた、これは非常に贅沢である
世の大抵のものは、変わって欲しくないものが変わり、何も生み出さず衰退していく
帰省する度に、家族で通ったファミレスやコンビニが消え、遊び場だった空間に家が建ち、そして家が消えている、「あれ、ここって何か建ってなかったっけ?」そんな話ばかりである
椿祭りも、いずれはその道を辿るだろう、故郷から、また故郷が消えるのだ
この贅沢が、いつまで続くのか、贅沢を言えば、ずっと続いて欲しいのである
↑不覚にも萌えてしまった
本番が終わった
虚構の劇団第13回公演『もうひとつの地球の歩き方』
全公演が終わった
稽古始まりから終わりまで、2ヶ月以上、この劇と共にあった
12月中、胸が苦しくて稽古場に行くのが嫌になることが何度もあった
小道具担当であるにも関わらず、作れない、物を作ることが恐かった、原因はわからない
父が死んだ、自殺だった、鬱病が原因だったのだが、なぜあの日だったのかはわからない
本番が始まっても、男だからという理由で動かされるのがどこか受け入れきれなかった、大道具を持つのが苦手だ、仕込みとバラシは何度やっても、やはり慣れない
そして「風邪をひくだろう」という自らの予言を実現してしまい、公演中、インフルエンザになった、奇しくも、地元の新居浜公演期間中であった
そして大千穐楽では本番中に小道具が壊れた、メンテナンス不足だった
演出部の仕事とはなんなのか
クリエイティビティとはなんなのか
何もわかならない
けど、それでもつくれたこの小道具3つと思い出は、大切にしていこう
少しずつ紐解いていこう
現実と虚構の入れ替わり
ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド、というゲームが死ぬほど欲しい
そこでAmazonのレビューを見てみると、なんと、余りに熱いレビューの嵐で、感動してしまった……
特に、一番上に来ていたレビューが感動的だった
日々の仕事の疲れが、ゼルダによって救われたという内容だ
彼は、ゲームをしていたある日、通勤中、いつも眺めていた山を見て、「あの山も登れるんだなあ」と「発見」し、電車の中で泣いたという
もちろんこれは、フィクションの可能性もあるが、しかし、ここで語られていたことはノンフィクションだ
大昔や、子ども時代は、山は「登る」ものだった。そしてゲームの中の虚構の山は、これ以上先へは進めませんよという「壁」の役割を果たしていた。ドラクエのワールドマップなどは、その典型例であるし、多くのアクションゲームがそうであった
しかし時代は進み、ゲームは高速で進化してきた
その結果、現代では現実と虚構が、入れ違ってしまった
現代では、山こそ「壁」であり、ゲームの中の虚構の山が「登る」ものになってしまったのだ
昔は、技術の問題で、虚構の山は登ることができなかった。しかし今となっては、虚構の山を登ることなど造作もない
一方、現実の山を登るのは、体力と、場合によってはお金、なにより時間が必要になった。そもそも、登れるものという認識が極端に小さくなっている。恐怖の対象であったり威圧感を与えるものとなっている
これを退化と言わず何と言おう
彼が泣いたのは、「山は登れる」というごく当たり前で、当然のことを思い出せたからなのだ
Twitterで、以前ゼルダと関連した内容で、ゲームなんかしなくても、この世界はすべてオープンワールドで、行こうと思えばどこへだって行けるんだぜ、という趣旨のツイートが回ってきた
本当にその通りだと思う
こんな当たり前のことを、虚構のゲームが教えてくれたのだ
あなたは、最近山を見ますか?
海を見ますか?
もし見るなら、そのとき、登ってみたいとか、潜ってみたいとか、感じますか?
あああ、ゼルダがほしいよおおおお……しかし節約しなくては……
しばらくは夢想で過ごさなくてはならない、なんと世知辛いのか……
アイドルマスターのライブ
今年の夏、アイドルマスターシンデレラガールズの5thライブに行った
全国ツアーの最終地、大千秋楽の、さいたまスーパーアリーナの二日目に行った
奇跡が起こって、一口しか応募してないのに、当選してしまったのだ
超絶うれしかった。吉野家の牛丼を食いながらダメもとで確認してたら当選してて、「ええええ?」って思ったのを思い出す。
ライブは最高だった!!
4時間15分ほど、MCごとの少しの休憩みたいなものはあったけど、実質休憩なしで、ぶっ通しのライブだった
サイリウムを買って、隣の人と仲良くなり、準備万端でライブに向かった(実際は、前日に時間ぐらいしか寝てなくて午前中は始発でコミケに行き、友人の頼み物を買い、移動中の電車でひたすら寝て、お風呂に入り直して会場に向かうという超過密スケジュールだったんだけど。けどこの体験も最高に楽しかった)
ポジティブパッションが来たとき、テンション上がり過ぎてずっと叫んでいた
ニュージェネがトランシングパルスを歌ったとき、エモ過ぎて感動の叫びをあげていた
PANDEMIC ALONEもめちゃくちゃ笑ってしまった。笑いながらもかっこよすぎてやばかった
最後の怒涛のセットリストは、体力を根こそぎ持って行っているにも関わらず組まれているので、まじで体力の限界を超えた(帰りの電車で寝落ちしてイヤホンをなくしてしまった)
それでも最高に楽しい夏の思い出あった
何故急にこのことを書こうかと思ったかというと、思い出したということもあるけど、そうだ人間いつか忘れる生き物じゃないかということも思い出したからである
日記として書き綴っておけば、歳をとっても、また思い出せるはずである
だからこれは備忘録である
ああ、またライブに行きたいなあああああ!!!!