本の匂いが! 好き!!!!!
本の匂いが好きだ
新品の匂い、古書の匂い、古本の匂い、それぞれ違う匂いを醸し、その本が過ごしてきた歴史を感じる。
新品の本はやはり綺麗で、まだ何者でもない。古書はどれだけの本棚を回ってきたのか、どれだけの人に触れられてきたのか、どれだけの視線を浴びてきたのか、匂いを通して感じる。古本は、自分の居場所はどこなのか、彷徨っているような匂いがする
正直、ぼくは新品の匂いが好きである。本を買い、家に着いて読み始める前に、まず本の匂いを嗅ぐ(古書だろうと嗅ぐ)。一度吸うとそのページは新品の匂いではなくなってしまうので、すぐに別のページに移ってまた匂いを嗅ぐ。これを10回ほど繰り返し、ようやく最初の文章を読み始めるのだ
ちなみに、当然だが、紙の種類によっても匂いは変わる。文庫に使われる、ツルツルした紙は、フワッとした匂いで、ワンピースなどのマンガに使われている紙はモワッとした匂いである
傍から見ると、あやしい人間である。ひたすら本に顔を突っ込んでスウウウスウウウと鼻を(というか顔全体を)震わせているのだから。
更に、ぼくはこれを、少女漫画でも同人誌でも行うので、その場合は、尚更やばい人間である。美少女の匂いを何とか嗅ごうとする変態にしか見えない。実際、寮のロビーでこの行いをしたとき、「菊池さん何してるんですか!?」と言われたことがある。何してるって、本の匂いを嗅いでいるだけだ。そう答えても、「いやーキモイっす」と言われた。おそらく彼の感性が正しいのだろう
しかし、そんな世間の目を気にする必要を感じなくなるぐらい、嗅ぐという体験は止められないのである。ヤメラレナイトマラナイ
だから、もし、本の匂いをちゃんと嗅いだことがない人は、ぜひ嗅いでみてほしい!
新品の、まだ人の手が触れてない、純粋な紙とインクの匂い……いや香りを、感じてほしい
ぼくは電子書籍は苦手だが、その理由にこの匂いがある
電子書籍に匂いはない!
無臭無臭無臭!!!!!!!
これがどうしても許せないのだ!!!!!!!!!!!!!
もし、科学の発展により、電子書籍でもほんの匂いを再現できるのなら、買っても良いという気持ちになってくる。利便性云々の問題ではない。この匂い、ただ一点の問題なのである
本を読んでいるとき、無性に匂いを嗅ぎたくなることが結構な頻度である。その場合、どれだけ物語が盛り上がっていようと、匂いを嗅ぐので、読書スピードは遅くなる。そう考えると、電子の方が集中して本を読めるのかもしれない
それでもなお、ぼくは匂いを嗅ぎたい!!!
真っ白なページから香るその匂いは、甘く(比喩ではない)、やさしく(包まれるよう)、脳神経がとろけるような錯覚(事実)に陥る
この世界に本の匂いを嗅ぐことに特別な思いを寄せない人ばかりだと考えると、ぼくの気持ちは憂いてしまう。何故、嗅がない?
現代世界は、匂いにあふれている。柔軟剤の匂い、シーブリーズの匂い、ファブリーズ、香水……そこにたった一つ、新しい匂いが加わるだけである
さあ、あなたの手元にあるその本
一度嗅いでみてほしい
きっと、より深く、その本の世界に浸れるはずだ
読書は目でするのではない
鼻でするのだ
戦争の分類
今日、お風呂に入りながら、戦争について考えていた
戦争に関する本は読んだことがないので、常識なのかもしれないけれど、戦争は大きく3つに分類できるような気がした
1 健康的な戦争
2 社会的な戦争
3 不毛な戦争
この3つである
健康的な戦争とは、水や食料を奪い合う戦争のことである。水と食料は、無くなれば死に直結する重要な要素である。だから、それを奪い合うことは、健康的であり、ある種納得のいく戦争である。納得という言い方が悪いが、要は、本能的に起こってしまう戦争で、仕方の無いものなのかもしれない
社会的な戦争とは、たとえば油田を奪い合う戦争である。レアアースや領土問題も、これにあたる。これらは無くても死なないが、あることによりつうかという社会的ツールを得て、間接的に死を免れる(=これらがないと死んでしまう)。だから、少しではあるが、戦争に納得がいく。もちろんこんな戦争はなくていい。あってほしくないし、してほしくないし、したくないし、協力もしたくない。けど、社会というシステムができてしまっているので、続く限り、おそらく無くならない
不毛な戦争とは、宗教による戦争である。他2つに比べて、これは本当にわからない。なぜなら、宗教などなくても人は死なないからである。つまり、人間には暴力衝動があり、それが死に接すると発動してしまう他2つと違い、これは完全なエゴである。
地球上の一部地域で、紛争が起こっているが、これは実は、納得がいくのである。勝たなければご飯が食べられず死ぬからである。しかし、宗教戦争だけは、何度聞いても気分が悪い。自爆テロというものがあり、戦争行為だが、死ぬ時その人は、何を思って死ぬのか。思想で死ねるなんて、はっきり言って頭の中がお花畑である。死ぬことによりお金がもらえて、家族に届けられるのなら、理解できる。そうなるしかなかった人生に同情と、切なさと、怒りを感じる。しかしそうでもない人は、どれだけ徳のある人であっても、筋肉のある人であっても、自分に内蔵があり、骨があり、どうしようもない肉体があるということを忘れた存在である。人間は頭だけで構成されているのではない。それを忘れたとき、人間は、不毛な戦争を始めるのである
戦争は嫌だ
不毛な戦争は最も嫌だ
本屋と小鳥
昨日今日と、ヨーカドー内に小鳥が侵入し、警備員の人や正社員の方が虫あみを持って探し回っていた
うちの本屋がお気に入りのようで、その小鳥は、よく店内に来ては好き放題飛び回り、飽きたり虫あみが現れたら、どこかへ去り、そしてまたしばらくすると戻ってきた
昨日はそれほど気にしなかったけれど、今日、改めて小鳥を見てると、どうやら本屋と小鳥は、文学的に非常に親和性が高いことが分かった。小鳥から本屋がどう見えているのか想像出来ないが、人間から見ると、ひたすらに癒しの空間となるのだ
今日イチの癒しは、ぼくがレジでお客さんとお金のやり取りをしていた時だ。小鳥が羽を休めるため、店頭の棚の上で面置きになってるハードカバーの本にとまった。直木賞と本屋大賞をダブル受賞した作品だ。そして、その本が偶然、草原のような装飾だったため、さも小鳥が原っぱに降り立ち遠くを見据えているような光景が広がり、窓がないデパートのはずなのに、辺りに爽やかな叙情の風が吹き、うっかりレジを操作する手が止まってしまった
小鳥は本の内容を理解できない。その小鳥が本を拠り所とし、小首をかしげながら休まり、飛び立っていく姿は刹那的で、美しかった
この小鳥、本の上など安定したところだけでなく、薄さ1ミリにも満たないラミネート加工された紙の上にもとまろうとするため、その場合はうまく着地できず転けてしまうのだが、それも可愛い。レジに居ながらニヤケが収まらない。ちゃんと仕事をしてほしいと店長は思ってただろう
何より助かったのは、この小鳥は鳴かなかった。黙って低い天井を飛び、気ままに立ちどまり、ぼくの心を癒し、誰にも迷惑をかけてなかった
あああ思い出しながら、悶えてしまう。萌えであった
文学的と最初に書いたが、繰り返すが、本の上に小鳥が居て、去っていったそのシーンが、特に文学的であった
こんなもの読んで何になるんだい?と問われているような錯覚になった。ぼくはそれに答えることが出来ない。訳あって最近、本をよく読んでいるが、そしてそれは単純に面白いからだが、その小鳥にぼくの心を透かして見られてるような感覚に陥った。例えるなら、美しい女性に流し目で一瞬見つめられたような、そんな錯覚である
ああそうだ、あの小鳥は女性だった
あまりに美しすぎたのだ。恋に落ちるとは、このことかもしれない。少なくとも今、あの小鳥のことを忘れられる気がしない
ラミネート加工の紙に乗りかけて転けてしまうとか、天然な女性感もある。気ままにぷらりぷらりと歩き、直感的にここと決めたところに留まるのも、似たものを感じずにはいられない
今こうして文章に書き納めてるぼくは、完全に恋に落ちた男だ。一目惚れである。人間相手にときめかず、小鳥にときめくようになってしまった
鳥からすれば訳が分からないだろうけれど、申し訳ないが、ぼくは分かってしまったので、しばらくその横顔を思い出してはドキドキする日々が続くだろう
明日も店内に居ないだろうが、なんならずっと店内に居ないだろうか
もし本屋を開くとすれば、ぜひ小鳥を放し飼いにしたい
ぜひ、多くの人に一度見てほしい。本から小鳥が飛び立つ瞬間を。その美しさを。