車を支えているのはタイヤ

三日坊主日記です

犯人は自分の鏡なのではないかという不安

川崎で、通り魔事件が起きた

小学生と、男性が亡くなって、犯人は自殺した

その他複数の負傷者を出して、騒動の余韻はその翌日も続いていた

 

怒りを、どこに向ければいいのか、わからない人がほとんどだと思う

犯人が自殺を選択したことは、究極の逃げであったと思う。もう誰も犯人の背中を蹴ることも、罵声を浴びせることもできないのだ

 

ぼくは犯人に、怒りを覚えることができない

「一人で死ねよ」という呆れは感じた

しかし怒りは感じない

 

 

彼に対して怒れるのはいったい誰なのだろう

被害にあった方、その関係者が怒りを感じるのは当然だとしても、それ以外の人が怒りを感じることができるだろうか

恐怖や不安は感じるだろうけど、どうして怒りが湧くのだろう

 

ぼくは彼が他人だとは到底思えない

誰だって彼になるのではないか

 

彼はぼくの鏡だ

世間から冷たい目で見られ、収入も少なく、友達もいなくて、周りは家庭があって子どもと居て、会社の話で盛り上がって、社会は知らないスピードで進化して、孤独で、ワンルームの部屋で安いスマートフォンで動画を見る生活が30年続いたら

ぼくは彼になる

そして誰でも、彼になるのではないだろうか

 

彼を非難できる人間は、自分の未来にどれだけ希望を持っているのだろうか

正直羨ましい

 

怒りではなく不安を感じる

彼になる未来が見えるから