車を支えているのはタイヤ

三日坊主日記です

本番が終わった

虚構の劇団第13回公演『もうひとつの地球の歩き方

全公演が終わった

稽古始まりから終わりまで、2ヶ月以上、この劇と共にあった

 

12月中、胸が苦しくて稽古場に行くのが嫌になることが何度もあった

小道具担当であるにも関わらず、作れない、物を作ることが恐かった、原因はわからない

父が死んだ、自殺だった、鬱病が原因だったのだが、なぜあの日だったのかはわからない

本番が始まっても、男だからという理由で動かされるのがどこか受け入れきれなかった、大道具を持つのが苦手だ、仕込みとバラシは何度やっても、やはり慣れない

そして「風邪をひくだろう」という自らの予言を実現してしまい、公演中、インフルエンザになった、奇しくも、地元の新居浜公演期間中であった

そして大千穐楽では本番中に小道具が壊れた、メンテナンス不足だった

 

演出部の仕事とはなんなのか

クリエイティビティとはなんなのか

 

 

何もわかならない

けど、それでもつくれたこの小道具3つと思い出は、大切にしていこう



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少しずつ紐解いていこう

 

稽古が始まった

稽古が始まった

戯曲はまだ完成していない

女にモテず、男からも不潔だと思われている人物が、二人出てきて、それぞれ名前が菊田と土井である、これは私と同期の友人のことであろう

なんにせよ、憧れの人の戯曲に名前が載ったことは嬉しい

 

小道具の進行をしなくてはならない

戯曲がまだ完成していないのだから、出来ることは少ない

しかし気持ちは焦るばかりである

これからまだ二か月以上、稽古をする

こんな気持ちの焦り方では、途中で風邪でもひいて倒れるだろう

心のコントロールをしなくてはならない

現実と虚構の入れ替わり

ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド、というゲームが死ぬほど欲しい

そこでAmazonのレビューを見てみると、なんと、余りに熱いレビューの嵐で、感動してしまった……

 

特に、一番上に来ていたレビューが感動的だった

日々の仕事の疲れが、ゼルダによって救われたという内容だ

彼は、ゲームをしていたある日、通勤中、いつも眺めていた山を見て、「あの山も登れるんだなあ」と「発見」し、電車の中で泣いたという

もちろんこれは、フィクションの可能性もあるが、しかし、ここで語られていたことはノンフィクションだ

 

大昔や、子ども時代は、山は「登る」ものだった。そしてゲームの中の虚構の山は、これ以上先へは進めませんよという「壁」の役割を果たしていた。ドラクエのワールドマップなどは、その典型例であるし、多くのアクションゲームがそうであった

しかし時代は進み、ゲームは高速で進化してきた

その結果、現代では現実と虚構が、入れ違ってしまった

現代では、山こそ「壁」であり、ゲームの中の虚構の山が「登る」ものになってしまったのだ

昔は、技術の問題で、虚構の山は登ることができなかった。しかし今となっては、虚構の山を登ることなど造作もない

一方、現実の山を登るのは、体力と、場合によってはお金、なにより時間が必要になった。そもそも、登れるものという認識が極端に小さくなっている。恐怖の対象であったり威圧感を与えるものとなっている

これを退化と言わず何と言おう

 

彼が泣いたのは、「山は登れる」というごく当たり前で、当然のことを思い出せたからなのだ

Twitterで、以前ゼルダと関連した内容で、ゲームなんかしなくても、この世界はすべてオープンワールドで、行こうと思えばどこへだって行けるんだぜ、という趣旨のツイートが回ってきた

本当にその通りだと思う

こんな当たり前のことを、虚構のゲームが教えてくれたのだ

 

あなたは、最近山を見ますか?

海を見ますか?

もし見るなら、そのとき、登ってみたいとか、潜ってみたいとか、感じますか?

 

あああ、ゼルダがほしいよおおおお……しかし節約しなくては……

しばらくは夢想で過ごさなくてはならない、なんと世知辛いのか……

 

ベケット 備忘録

ベケットデカルトを研究していた、彼をモチーフにした詩で賞を取っている

ベケットデカルトの思想を道化として読んでいた可能性(肉体と精神についての記述面で)

自然界、宇宙、社会と、そこに存在する肉体の偶然性に対する、精神の必然性、結賀論をモチーフとした小説がある『マーフィー』ゴドーの原型ともいえる

教員を一年していた

 

『息』は産声の可能性もある

 

初期作品にみられた直接的同家は、後期になって隠れたが、しかし残っている

 

 

彼はなぜ道化になったのか? いまだふめい

アイドルマスターのライブ

今年の夏、アイドルマスターシンデレラガールズの5thライブに行った

全国ツアーの最終地、大千秋楽の、さいたまスーパーアリーナの二日目に行った

奇跡が起こって、一口しか応募してないのに、当選してしまったのだ

超絶うれしかった。吉野家の牛丼を食いながらダメもとで確認してたら当選してて、「ええええ?」って思ったのを思い出す。

 

ライブは最高だった!!

4時間15分ほど、MCごとの少しの休憩みたいなものはあったけど、実質休憩なしで、ぶっ通しのライブだった

サイリウムを買って、隣の人と仲良くなり、準備万端でライブに向かった(実際は、前日に時間ぐらいしか寝てなくて午前中は始発でコミケに行き、友人の頼み物を買い、移動中の電車でひたすら寝て、お風呂に入り直して会場に向かうという超過密スケジュールだったんだけど。けどこの体験も最高に楽しかった)

ポジティブパッションが来たとき、テンション上がり過ぎてずっと叫んでいた

ニュージェネがトランシングパルスを歌ったとき、エモ過ぎて感動の叫びをあげていた

PANDEMIC ALONEもめちゃくちゃ笑ってしまった。笑いながらもかっこよすぎてやばかった

 

最後の怒涛のセットリストは、体力を根こそぎ持って行っているにも関わらず組まれているので、まじで体力の限界を超えた(帰りの電車で寝落ちしてイヤホンをなくしてしまった)

それでも最高に楽しい夏の思い出あった

 

何故急にこのことを書こうかと思ったかというと、思い出したということもあるけど、そうだ人間いつか忘れる生き物じゃないかということも思い出したからである

日記として書き綴っておけば、歳をとっても、また思い出せるはずである

だからこれは備忘録である

 

 

ああ、またライブに行きたいなあああああ!!!!

お昼のワイドショー

今日の昼、ワイドショーを見ていた

とある議員の不倫騒動を報道していた

 

まず、苛立ちを覚えた

・不倫は各家庭のプライバシーの問題であり、第三者がずかずかと入り込んでいい問題ではない(告発まででとどめるべき問題)

・そもそも、不倫がいけないことだという前提で話が進んでいる

・議員を辞退するかどうかを、世間の目(こんなものない)を盾に問い立てている(つまり、不倫しているから議員辞職しろという、まったく論理性のない結論がなされている)

挙句の果て、「一線を越えたか超えてないか」などという、中学生としか思えない部分で戦い始めたときは、もう笑っていた。イマドキの子どもなら、小学生レベルかもしれない

 

大抵、世間(繰り返すがこんなものはない)が騒いでいるといわれる問題は、個人が我慢している願望が強ければ強いほど大きくなる。不倫問題が世間の注目を浴びるのは、人々が普段それを我慢して堪えているからである

殺人も暴力もそうである。我慢しているから、我慢しきれなかった人間を糾弾するのである

 

そんなことも知らず、堂々と正義の面をしたコメンテーターや番組編集、そしてそんな番組を「あらまぁ」なんて言いながら見ているどこかの視聴者、つまり番組に関わっているあらゆる人間に腹が立った

 

こんな番組なら、最初の五分だけ見て事件のことだけ知り、あとはニコニコ動画淫夢動画でも見てた方がよっぽど時間を有意義に使えている(もちろん淫夢は面白いが本来生産性はない。しかしあると錯覚するほどワイドショーは面白くなかった)

 

「お昼の時間帯の放送は、家事をしている主婦が、画面を見なくても内容がわかるように放送している」

うちの劇団のボスが、以前そう教えてくれた

しかしそれは昭和や平成初期の話で、現代の主婦は、本当にこんな番組を見ながら家事をしているのだろうか?

YouTubeを見ながら、音楽をかけながら、映画を見ながら、仕事をしているのではないか?

 

テレビではどうしても、ネットニュースの速度についていけない。これは仕方がない

かといって、別の動画サービスのような手軽さも求められていない

じゃあテレビが生き残るにはどうすればいいのか。テレビ局の偉い人は必死に考えていると思うけど、もう、ドキュメンタリー番組だけ作っていればいい気がする

NHKのドキュメンタリー番組が、テレビで放送しているとき、何気なく見始めると、もう止まらない。この間放送していた満州で人体実験をしていた731部隊のドキュメント放送は、胸に来るものがあった。高校生のとき、巨大イカの放送もあった。どちらも見てよかった内容である

NHKは批判されることもあるが、なんだかんだ、質の高い番組を作っている。普段見ない人は、ぜひ見てほしい。本当にワイドショーがアホらしくなるほど、意味のある時間を過ごせる

で、このドキュメントは、時間と予算がかかる。YouTubeTwitterでは取り扱いきれないほど、取り上げる問題によっては奥が深い。資金と人手が集めやすいテレビ局ならではの放送である

議員の話も面白いのかもしれないが、もっと面白いことが周りにはある。それをドキュメンタリーは教えてくれる

 

 

障がい者?

障害者

障碍者

障がい者

 

いったいどれが正しいのだろうか

教育現場では、障がい者と記す

しかし当事者たちは、障害者と記す

当事者は当然、インターネットて検索する時、障害者と検索する

だから、欲しい情報が、出てこない時がある、らしい

つまり、統一することで、情報がまとまる。統一しなくてはならない

 

私は、障がい者を推す

害という字には、マイナスなイメージがあり過ぎる

当事者はいう「文字を変えたところで何も変わらない」

私はこれを正しいとは考えない

 

害という字は、被害などのように、マイナスイメージをもたらす

私たちは幼少期から、この字を見て育つ。先入観を植え付けられる

実際に障がい者と会ったとき、この字が頭に浮かんでしまえば、もう相手は邪魔者でしかない

しかし浮かばなければ、まだ交流の可能性がある

大人になれば、字が浮かんでも、理性で抑えられる。けど子どもは無理だ

そして多くの人間が子どもだ

 

今変えたところで、この先入観は消えない

しかし100年、200年経ったとき、まだ害の先入観が残っているだろうか?

人々の意識を変えるのには、世代交代を経る必要がある

それは今、できることだ

 

障害者でも障碍者でも、もちろん構わない

ただ、負の遺産をいつまでも残すことは、私な得策だとは思わない

未来を見なくてはならない

害のイメージが残る未来か

害のイメージが隠れた、あるいは薄くなった未来か

今ではない

未来だ