公務員の働き方
公務員の働き方に対し、怒る人がいる
何故だ……
定時上がりで楽な仕事、安定した給料に、貰えるボーナス……
彼らが享受しているのは、甘い蜜なのだろうか?
もちろん、甘い蜜などではない
当然の権利なのだ
甘い蜜だと思うのであれば、それはあなたが、ブラック企業(あんまり濫用したくない言葉だ)に勤めている証拠にほかならない
もし、公務員の仕事に対し、そんなのまだまだ、甘い蜜じゃないよと思う人がいれば、あなたが勤めてる会社はホワイト企業なので、是非これからも勤めていて良いと思う
公務員はランクの違いこそあれど、国に属する職員である
警察官、消防官、教員、市役所勤めなど、更なる分類があるが、すべて、国に関わってる仕事である
そんな人々に、ブラック企業のような仕事を強要するのは、巡り巡って、自分に返ってくることになる
ブラック企業と戦うとき、「あの企業はこうだ、この企業はどうだ」と、別企業のホワイトさを羅列したところで、会社が動くだろうか
ぼくは働いたことがないので、分からないけど、動くなら、いいと思うし、動くべきだとも思うけど、きっと、動かない。そもそも、動く会社は、ホワイトに対し開いている企業なので、問題ないと思う
問題は、動かない企業だ。「よそはよそ、うちはうち」と言われたら、あなた、いったい何を基準に戦うのだ
そんなとき、公務員という国が定める働き方(つまり基準)を提示すれば、少しは、説得力が増すのではないか?
そんなことでは動かない、という意見もあるだろう。その通りである。そんなことで動けばもっとみんな仕事に人生を潰されることはないはずだ
しかし、逆に考えてみると、公務員は目指すべき勤務状態で、その基準がブラックだと、公務員でさえこの安月給なのだから、という理由でよりブラック化が加速する可能性がある
公務員は、基準なのだ
基準と比較して、ホワイトかブラックかがあるのだ
時代に合わせて、基準は動く
貰いすぎなら、減らさなくてはならない
ただ、過剰に批判すればするほど、自らの首を締めている
自分が苦しいのだから周りも苦しむべきだ、というのは、社会を壊す
前向きに検討しよう
基準を下げるか、基準に引き上げるか
あるいは、基準になるか
その選択をするのはあなた自身だし、ぼく自身
そして、今の選択をしたのも、あなた自身だし、ぼく自身
行動力のある人が勝つ
結局、行動力のある人が勝つのである
明日やろうは馬鹿野郎である
「やりたいやりたい」だけでは、現実は動かない
と、いうのが正論で、そして間違いではないと思う
けど、どうしても、そんな理由で切り捨てられてしまう人が、ぼくはかわいそうなのである
かわいそうというと偉そうだけど、でも、そう思うのである
人が、何かをつくろうと思うとする
彼は内気であるが故に、人を集められず、臆病で賞にも応募できない
その彼は、人生のどこかで、「自分を変えて」人を集めるためのコミュニケーション能力を身に付けたり、勇気を身に付ける必要がある
しかしそう変わった彼は、もう、変わる前のような作品を書けるとは限らない
彼は「変わってしまった」のである
まあ、賞ぐらいは顔も何もばれないので、応募ぐらいはしろよと思う気もするが、こうして、彼特有の個性がなくなっていくのは、悲しいのである
お金持ちの人が、義務教育はもう時代に合わないから要らない、という
ぼくは、あんたはお金あるから言えるんだよ、という
行動力のある人が、行動しないと意味がないよ、という
ぼくは、あんたはもともとあるから言えるんだよ、という
そういう内気な人は、ぼくは綺麗に見えるし、馬鹿にする文化があるとしたら、本気で意味が分からない
結局、コミュニケーションがすべてなのか?
内気な人の実存はないのか?
タクシーで人が死んでた?
寮の目の前に、交番がある
その交番に、タクシーが停まってて、運転手が警察官と話をしていた
運転手が急ぐあまり交通違反でもしたのかなと思って、横目に見ながら通り過ぎようと思ったのだけれど、なんと、後部座席て、歳を召されたおばあちゃんが、天を仰いで、大口を開けて、生気を全く感じられない佇まいで、座っていた
直感的に死んでると思った
どういう経緯かは分からないが、あの運転手は、業務としておばあちゃんを乗せ、運んでいたのだと思う
そして目的地に着いたは良いものの、その時に相手は死んでしまっていて、そのまま交番に行ったのではないだろうか
当然、運転手は、殺人の可能性も疑われ(もちろんその可能性はある)、自然死だとすれば気付かなかったのかなと、いろいろ問いただされることになるだろう
しかし、運んでいた相手が、気付けば死んでいたというのは、あまりにドラマティックであると思うのだ
少しの、不条理ギャグである
別役実さんみたいな手法だ
もちろん、生きていてくれれば何よりである
死んだと仮定してこれを書いているのだけれど、生きていてくれた方が、何より運転手は助かるだろう
誕生日はなぜ祝われるのか
誕生日になると、多くの人は祝われる
なぜ祝われるかというと、わざわざ、そうわざわざ、生まれてきたからである
今の私であれば、生まれること(つまり苦しんでまで産道を通って出ること)はしたくない
しかし赤子のときの私はそれをしたのである。偉い。あまりに偉い
この偉さは、月曜日の朝、仕事に出かけるサラリーマンとは比較にならない偉さである。仮に冬、暖かい布団から出て仕事に行くことのストレスが10ストレスだとすれば、5000ストレスぐらいはあるだろう
だから、誕生日は祝われるべきであるし、また、自分が自分に対し、「よく生まれようと思ったな」と褒めてあげるべきなのである
実際はからだが大きくなって出るしか道がないとか、自画自賛は痛々しいとか、そういうツッコミがあるだろう
しかし考えてみてほしい
からだが大きくなっても、生まれてこない赤ん坊もいる。母親のからだになんら問題がないのにである。こういう赤ん坊は非常に聡明である。実は現世のことを知りすぎているがあまり、出たがっていないのである。地獄とはこの世のことだという哲学者の言葉を、神様から教えてもらっていたのだろう。実に現代人的な赤ん坊である(ちなみにこういう子どもは生まれたとき泣かないことが多い。あまりに先進的な価値観を持っているがあまり、言葉を発するということに合理性を見いだせず黙っているのである。賢者は必要最低限のことしか口にしない)
そんな賢者が、苦しい思いをしてまでも現世に出たのは、勇敢な冒険であり、勇者なのだ。多くの人は、ヒマラヤに登る人を、多くの人は冷めた目で眺めている。そんなことしてなんになるんだ、命の無駄だ、と。しかしその行為に勇気をもらう人は、それ以上に多くいる。そう、我々はヒマラヤに挑戦した冒険者なのである
また、自画自賛が痛々しいというのは、あまりに主観的であるし、自分をほめられない人はかえって憐れである。人は一人で生きていけないが、一人で生きていく努力はするべきである。人のツイートにいいねを押せて、自分にいいねが押せない人は、もっと自分をほめていい。試しに誕生日を祝ってみよう