車を支えているのはタイヤ

三日坊主日記です

大好きなグミ

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子どもの頃からずっと好きな駄菓子

10円グミだ

当たると100円のお菓子の交換できるあのグミだ

 

 

意外と知ってる人が少なくて悲しいけれど、Amazonで売っててつい買ってしまう

今日から増税

それでもこれは、変わらない値段だ

 

愛おしい

この安っぽい味が、愛おしい

犯人は自分の鏡なのではないかという不安

川崎で、通り魔事件が起きた

小学生と、男性が亡くなって、犯人は自殺した

その他複数の負傷者を出して、騒動の余韻はその翌日も続いていた

 

怒りを、どこに向ければいいのか、わからない人がほとんどだと思う

犯人が自殺を選択したことは、究極の逃げであったと思う。もう誰も犯人の背中を蹴ることも、罵声を浴びせることもできないのだ

 

ぼくは犯人に、怒りを覚えることができない

「一人で死ねよ」という呆れは感じた

しかし怒りは感じない

 

 

彼に対して怒れるのはいったい誰なのだろう

被害にあった方、その関係者が怒りを感じるのは当然だとしても、それ以外の人が怒りを感じることができるだろうか

恐怖や不安は感じるだろうけど、どうして怒りが湧くのだろう

 

ぼくは彼が他人だとは到底思えない

誰だって彼になるのではないか

 

彼はぼくの鏡だ

世間から冷たい目で見られ、収入も少なく、友達もいなくて、周りは家庭があって子どもと居て、会社の話で盛り上がって、社会は知らないスピードで進化して、孤独で、ワンルームの部屋で安いスマートフォンで動画を見る生活が30年続いたら

ぼくは彼になる

そして誰でも、彼になるのではないだろうか

 

彼を非難できる人間は、自分の未来にどれだけ希望を持っているのだろうか

正直羨ましい

 

怒りではなく不安を感じる

彼になる未来が見えるから

電子書籍用端末探訪の旅

昨日、部屋の掃除をしたら、マンガが棚から溢れてしまった

置き場所に困って、ふと、電子書籍を今後は買おうと決意したのだ

電子書籍は過去に何度か買ったことがあるのだが、やはりからだに馴染まない。これまで何回か電子書籍導入を検討して、その度に頓挫しているのだ。いくつか要素があると思うのだが、昨日タブレットを探している時、それが判明したのである

 

これまでは、液晶画面の眩しさ、データであるという先入観が、読後感の味気なさを際立たせているのだと思っていた。それはきつと間違いではないし、これからも付いてまわる感覚だろう。

しかし真に問題なのは、ページをめくる頻度なのだということがわかった

アナログ書籍であれば、右のページを読んで左のページに移り、そしてページをめくるのだが(つまり2ページに1回めくることになる)、電子書籍だと、1ページにつき1回めくらなければならなくなるのである。

 

電子書籍を読んでいる時の、あの急かされている感覚、大学のレポートを読んでいるような(そうまさしく電子書籍はレポートである)感覚は、全てこのめくる頻度と直結しているのであった。試しに、小さい画面のスマホで、見開き読みをしたところ、「読書をしている」と腑に落ちたのである。レポートではない。私にとって本を読むという行為は、「ワン・ツー・ペラッ、ワン・ツー・ペラッ」という24年間に及ぶ読書リズムで、骨身に染み付いてしまっていたのであった

 

さて、となれば話は次の段階になる。つまり、何インチのタブレットを買うかだ

一般的なタブレットは、8インチ前後のものが多く、電子書籍もそのサイズが読みやすいとされている。しかしそれは片開き読みした場合の話であって、私のように見開き読みをしたい場合には画面サイズが小さすぎるであろう(Kindleの検討も行ったが、同じ理由で見送りである)

となれば10インチ前後のものになるが、私が想定していたよりも画面が小さく、見開きにすると読めなくはないがアナログより文字が小さくなってしまう。そうなっては導入に踏み切るには少ししのびない

12インチのiPadがあり、これならいけるかと思ったが、元の画面比率が4:3で、これは片開き読みするには最高な比率なのだが、見開き読みをすると片面のページがとても細長くなってしまい大変読みにくい。どうしてだ、どうしてみんな片開き読みをするんだ? どうして読めるんだ?落ち着かなくないか?私はまったく落ち着かない

 

私は今、12インチほどで画面比率が16:9に近いものを探している。探せばあるのだろうが、一般的な電器屋では置いてくれていないので試し読みができない。買ったら最後、不満があっても使い続けるしかないのだ

 

もうタブレットPCを買うしかないのが、そうなると予算が……と、悩んでいる

何か最適なタブレットはないものか……

タイムマシーン

過去ではなく、未来を変える物語

例えば、定期を忘れた場合

過去を変えるということは、自室で準備してる時点に新館移動して、定期をポケットに入れて出社することになる

未来を変えるとは、例えば10分先の駅へ行き、置き石をして、現代に戻る。すると置き石騒動で電車が止まるから、一旦家に帰って定期を入手し、遅延扱いで悠々と出社できる

直接的解決ではなく、間接的解決、だから読みがヘタだと失敗する(置き石だからすぐに発車して取りに戻った分遅刻して怒られる、みたいな)

 

なので、システム的に、起こってしまったことは変えられない。猫が轢かれる瞬間で時を止めても、過去には戻れないから、救えない

あと、ストップモーションにはならない。タイムワープした先でも、人々は歩き会話している、犯罪をすれば捕まる

季節感

1年は12ヶ月で、日本には四季があるので単純に4で割れば、該当する月がどの季節か測れるのだけれど、人それぞれ実際にはどの月がどの季節かというモノサシが違うのではないかと思う

〈菊池の場合〉

3~5月……春(3ヶ月)

6~8月……夏(3ヶ月)

9~10月……秋(2ヶ月)

11~2月……冬(4ヶ月)

秋好きなのに……2ヶ月しかない……

冬嫌いなのに……4ヶ月もある……

〈近年の日本〉

4~5月……春(2ヶ月)

6~9月……夏(4ヶ月)

10月……秋(1ヶ月だが実際には3日間とか。実質死んでる)

11~3月……冬(5ヶ月)

秋が死んじゃった……秋好きなのに……

冬めっちゃ生きてる……死んでほしい……

 

年中秋がいいので、移住します

人生初の寄席に行ってみた!

大学でお世話になった先生が、落語が好きな方であった

口を開けば落語の話で、演劇をしていくなら必ず見なさいと学生に説いていたのだが、どうも踏ん切りがつかず、一度も見ることなく卒業してしまった

 

落語の敷居の高さは何なのだろうか

 

テレビやラジオで、少しだけなら聞いたことがあったが、印象としては、独特の節のある喋り方で昔話をしており、聞き取りにくくつまりおもしろくない、というものであった

それと、なんとなく、マナーに厳しいイメージもあった、いや、マナーというより型というか、常識が多いイメージがあったのである、例えば、話し手が下手を向けばこう意味があるとか、登場人物が新しく登場するときは必ず上手から登場するとか、そういう落語のルールを理解していないと「見てないけない」と思っていたのだ

 

で、虚構の劇団の後輩(先輩でもあるんだけど)が、大の落語好きで、話し手になることもあるという人がおり(扇子を自作できる)、誘われて、遂に今日、寄席に行ってきたのである

場所は新宿の末廣亭、12時開演であったが、お互いの都合で14時から入った

 

まず驚いたのはそのシステムである、寄席では昼の部と夜の部があり、今回観劇したのは昼の部であったが、その時間はおよそ4時間!

4時間の間を、話し手が入れ替わりながら、噺をするのである、一つの噺はだいたい10分前後であったか、短いスパンで、落語(あるいはジャグリング等のパフォーマンス)をする

そして、観客はこの4時間の間、好きな時間に入って好きなときに帰っていいのである、なんなら好きなものを飲み、好きなものを食べていいのだ(撮影と録音だけは禁止)

噺の途中で席を立とうが、止められることはない

そもそも、舞台上だけ照明を照らす演劇とは違い、空間全体が明るい、観客席と舞台とが、限りなく一体となっているのだ

高尚なものを見ているというより、話芸技術を見るという感覚が強い、そして観客を椅子に縛って強制的に見せるのではなく、観客に自由を与えて、その目を向けさせるという力技(つまり技術)を駆使しているのである

通常の演劇では、こうはいかない、観客は見させられ、飲食は当然禁止、そういう環境に長く身を置いていた身としては、その開放感が、逆に空間の一体感を生み、あたたかい笑いを生んでいたように感じた

 

そして、もう一つは、物語のおもしろさである

江戸っ子の話が多く、落語特有の節回しで理解できるか不安であったが、杞憂であった

分からない部分もあるが、なんとなく文脈を理解できるし、そう理解できるように話し手も伝えてくれるのである、例えば聞いたことのない道具の固有名詞が出てきても、身振りのおかげで、それが風呂敷のような包みであることが理解できるのだ

そしてそんな中途半端な理解力でも笑うことができたのは、その噺の持っている普遍的な構造のおかげだと考える

長屋暮らしの男たちが、家賃も払えずしかし楽しく生活している、そんな野郎たちを連れて、大家が春の上野へ花見へ行こうと誘う、しかし大家も金がないから、酒に見立てたお茶と、かまぼこに見立てた大根、卵焼きに見立てたたくあんを持って花見に行くのだが、世間体を気にして酔っぱらったふりを野郎たちにさせる、という話だ

あるいはもっとシンプルに、家を抜け出したいから、声真似のうまい友達に部屋にいるように身代わりを頼んで、その友達が必死に自分の存在を誤魔化そうとする話だ

日本的な絵本のような筋書きである、つまり、足し算でどんどん展開を繋げていくという構造は、噺の途中で理解できなくなってもそこから楽しむことができるし、その構造の持つ笑いたくなるという力が発揮される、

コント、漫才、ギャグマンガは、多くはこの足し算の構造でつくられている、足し算の構造になると、不思議と笑いがこみあげてくるのである、後戻りできなくなった人間はおっちょこちょいな行動をしやすいものだ

もちろん書かれているセリフがおもしろいのもあるが、それはこの構造があってのおもしろさである、それを再認識できたのはとても嬉しかった

 

何より、恩師ともいえる大学の先生の話し方が、話し手の方と全く同じだったのである、独特の節回し、もぞもぞと話し始めてついつい聞いてしまうその話芸、懐かしく、お会いしたくなってしまった

 

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よい一日であった

また行くだろう

ぜひぜひ、行ってみてほしい、これだけ楽しめて3,000円なのは、破格である

 

 

最近のハイライト

『女生徒』がおもしろい、エゴイストにも厭世家にもなりきれないふわふわした年齢、そして気がコロコロ変わるんだけどその変わるきっかけをきちんと書くことによる日常の描写(日常の描写とは普段気づかないことを気づいて書くこと)

 

世の中は他人のニュースで溢れている、けれど、初恋は初めて、自分のニュースに気がつくこと、つまり自分の発見

 

失恋の苦しさは自分の代わりがいることを痛感するから

 

女子高生と男子高生の創作における扱いやすさは危険、何をしてもどんなステータスでも許される傾向がある、全然リアルに感じないし面白くもない作品なのに女子高生を描けていると言われがち(くだらないことで悩んだり友人関係に悩むことが女子高生なのではない)

 

演出部の仕事をすると書いたり読んだりすることへの意欲が激減(個人差アリでおれの場合はかなり関わってた)