タクシーで人が死んでた?
寮の目の前に、交番がある
その交番に、タクシーが停まってて、運転手が警察官と話をしていた
運転手が急ぐあまり交通違反でもしたのかなと思って、横目に見ながら通り過ぎようと思ったのだけれど、なんと、後部座席て、歳を召されたおばあちゃんが、天を仰いで、大口を開けて、生気を全く感じられない佇まいで、座っていた
直感的に死んでると思った
どういう経緯かは分からないが、あの運転手は、業務としておばあちゃんを乗せ、運んでいたのだと思う
そして目的地に着いたは良いものの、その時に相手は死んでしまっていて、そのまま交番に行ったのではないだろうか
当然、運転手は、殺人の可能性も疑われ(もちろんその可能性はある)、自然死だとすれば気付かなかったのかなと、いろいろ問いただされることになるだろう
しかし、運んでいた相手が、気付けば死んでいたというのは、あまりにドラマティックであると思うのだ
少しの、不条理ギャグである
別役実さんみたいな手法だ
もちろん、生きていてくれれば何よりである
死んだと仮定してこれを書いているのだけれど、生きていてくれた方が、何より運転手は助かるだろう
誕生日はなぜ祝われるのか
誕生日になると、多くの人は祝われる
なぜ祝われるかというと、わざわざ、そうわざわざ、生まれてきたからである
今の私であれば、生まれること(つまり苦しんでまで産道を通って出ること)はしたくない
しかし赤子のときの私はそれをしたのである。偉い。あまりに偉い
この偉さは、月曜日の朝、仕事に出かけるサラリーマンとは比較にならない偉さである。仮に冬、暖かい布団から出て仕事に行くことのストレスが10ストレスだとすれば、5000ストレスぐらいはあるだろう
だから、誕生日は祝われるべきであるし、また、自分が自分に対し、「よく生まれようと思ったな」と褒めてあげるべきなのである
実際はからだが大きくなって出るしか道がないとか、自画自賛は痛々しいとか、そういうツッコミがあるだろう
しかし考えてみてほしい
からだが大きくなっても、生まれてこない赤ん坊もいる。母親のからだになんら問題がないのにである。こういう赤ん坊は非常に聡明である。実は現世のことを知りすぎているがあまり、出たがっていないのである。地獄とはこの世のことだという哲学者の言葉を、神様から教えてもらっていたのだろう。実に現代人的な赤ん坊である(ちなみにこういう子どもは生まれたとき泣かないことが多い。あまりに先進的な価値観を持っているがあまり、言葉を発するということに合理性を見いだせず黙っているのである。賢者は必要最低限のことしか口にしない)
そんな賢者が、苦しい思いをしてまでも現世に出たのは、勇敢な冒険であり、勇者なのだ。多くの人は、ヒマラヤに登る人を、多くの人は冷めた目で眺めている。そんなことしてなんになるんだ、命の無駄だ、と。しかしその行為に勇気をもらう人は、それ以上に多くいる。そう、我々はヒマラヤに挑戦した冒険者なのである
また、自画自賛が痛々しいというのは、あまりに主観的であるし、自分をほめられない人はかえって憐れである。人は一人で生きていけないが、一人で生きていく努力はするべきである。人のツイートにいいねを押せて、自分にいいねが押せない人は、もっと自分をほめていい。試しに誕生日を祝ってみよう
「視点」について
今、『サピエンス全史』という本を読んでいます。ベストセラーなので、本屋に行けばおそらくあると思われるのですが、この本が非常に面白いのです
スラスラと読め、かつ、ふと立ち止まると本当に考えたくてたまらなくなるような文章です
書評は、専門家たちによる論述が、いたるブログで書かれていて、学のないぼくには無理なのですが、ひとつ、「視点」という立場でこの本を読むと、更にスラスラと内容が入ってくるのです
ちなみに、漫画版も発売されたようである。ぼくは書店員という立場を悪用し、立ち読みをしたけど、そっちは読まなくてもいいかなと思う
それも、ぼくの「視点」」の話になるんだけど、なんというか、この本の魅力を極めて現実に置き換えてしまったがゆえに、抽象性が消えて、魅力がなくなってしまっているのです
で、「視点」の話です
多くの人は、この本が、著者の「ユヴァル・ノア・ハラリの視点」で書かれていると思っている。おそらくそれは正しいのだけれど、それだけだと、これは内容は面白いが、文化人類学者の歴史解説書となってしまう
ぼくは、本文中にもその描写があるのですが、「ホモ・サピエンスのDNAの視点」で読んでいます
DNAは、5万年前にホモ・サピエンスが生まれてから、ほとんど変わらず(肌の色とかその程度。5万年前にタイムスリップしても子どもを作れます)、未だに続いています
一方人間は、5万年の間に多くの変化がありました。帝国や宗教が生まれ、貨幣や言語が生まれました。インターネットを生み出し、からだを用いないコミュニケーションも可能になりました
そんな変わり果ててしまった人間の、その遍歴を、ずっとほとんど変わらないままのDNAはどう思っているのか、どう見てきたのか
そういうことが書かれている書物だと、ぼくは思うのです
本文の中に、「我々のDNAは、高層ビルの上に住んでいても、依然サバンナで暮らしていると思っているのである」という趣旨の文章があります。それでビビっときたのですが、つまりそういう「視点」の書物なのだと思います
で、そんな感じで楽しく読んでいるのですが、これを演劇に応用したいのです
つまり観客の「視点」を特殊なものに想定させ、演劇をつくりたいのです
普段の演劇では、観客は、昔でいうコロスのような、無個性な存在となります。はっきり言ってしまえば、何も考えてほしくないのです。こちらが意図したところで笑い、意図したところで泣いてほしいのです
それが、観客をコロスとして扱うということです
コロスとして扱わないためには、観客に何か、役を演じてもらうのが手っ取り早いです
例えば、開演前、アナウンスをするとき、「みなさんは、この劇場にいる間、動物です。お好きな動物でいいです、目を閉じて、あなたの好きな動物を想像してください。その動物の鳴き声はどんなですか? 大きさは、視点の高さは?」などと煽り、その気にさせた状態で芝居を始めるのです。そうすると、その劇は、うまくいけば、コロスではなく、動物園のような雰囲気で、複数の異なる動物たちの視点で劇を見られるので、演劇がより演劇として機能すると思うのです
演者だけでなく、観客と共に演劇を作れるのです
例えば、ライオンになりきっているお客さんは、「そんなめんどくさいやつ噛み殺してやればいい」と物語を批評するかもしれないですし、鯉になりきっているお客さんは、「え、走り回るのってヤバ、足ヤバ」といった演技論のようなものに思考を走らせるかもしれません。ノミだったら、「いやみんなデケエよ」と、物語どころじゃないかもしれません
でも、それでいいと、ぼくは思います
何か限定した「視点」で演劇を見る。世界を見る
そうすることが、頭を使うということなのかもしれません
寂しさの招待(正体)
女の人になったつもりで、妄想セックスをしてみる
相手も女の人。なんて都合がいいのだろう
どんなふうにからだが震えるのだろう、こんなに声が漏れるのだろうか、入ってくるってどういう体験なんだろう、手は繋がれてる方が気持ちいいな
不思議と心が満たされる
男の人のままで、妄想セックスをしてみる
相手は女の人。やっぱり都合がいい
でも、不思議と心が空っぽになる
そうして暗い部屋でひとり
どうしようもなく寂しくなってしまうのだけれど、もうやめられない
寝相と結婚生活
昨日、寮を卒業した先輩の家に遊びに行った。アニメーターの人で、生活リズムが不規則で、「午前三時に起こして」と言われ、ぼくは寝ずに過ごし、時間になったから起こしたのだけれど、すぐ二度寝三度寝として、その先輩は起きなかった
在寮中からこんな関係だったので、知ってた速報で、別段気にしなかった
しかし、夜が明けてしまうと、ぼくの眠気が限界になった。先輩はまだ寝ている。起こしても起きない
そうして気がつくと、ぼくは先輩の寝ているベットに倒れ込み、気絶するように寝てしまっていたみたいだ
男の一人暮らし、シングルベッド
そこに男ふたりが、お互い気絶するように寝ていた
そして昼、先輩は既に目が覚めていて、ぼくを起こしてくれた
そして、いかにぼくの寝相が悪かったのか、教えてくれた
まず、イビキがうるさい。これで先輩は起きてしまったらしい
からだが動きすぎる。ゴロンゴロンとしてるうちに先輩を攻撃をしていたようである
寝ながら咳をする。へちっこ向いて咳をするのならいいが、その時のぼくは、わざわざ先輩の顔の方を向き、咳をしたみたいである。先輩は即座に風呂に入ることを決意したらしい
これは、男同士だったから、まだ許されていた面があるだろう
もし、これを彼女や奥さんの前でしたら、どうなっていたのだろうか
初めての夜、幸せな時を過ごし、静かに朝を迎えようとした矢先、強烈な寝相である。ロマンも何もない
世間の人は、この問題にどうケリをつけているのだろうか? 素敵だと思ってた恋人が、夜になると暴れん坊になってしまったとき、まだ好きでい続けられるのだろうか?
ぼくは暴れる女の人は大好きなので、問題ない。しかし、そんなモノ好きは多くない気がする
みんな素敵な夜を想像し、しかし寝ている姿は想像しない。それとも好きであれば多少の寝相は気にならないのだろうか? しかし、顔面に咳をされるのは誰だって嫌な気がする
くどくど書いてきたけど、つまり、寝相を治したい。矯正したい。素敵な朝を恋人や奥さんと迎えるために
私は特別な人間なのか
私は特別な人間なのだろうか
私がほかの人と明らかに違うのは、DNAだけである。それ以外は決して、私は他人との区別はない
私は天才ではない。私の書けるものはほかの人も書けるし、私の考えることは他の誰かも考えることが出来る。センスもも凡庸であり、捻った返しなどできない
私にしか見えないものはない。私の色覚は多くの人とほとんど同じである。視力が悪いが同じぐらいの視力の人は多い
私は常に便秘気味で、お腹が出てる。お尻のかさぶたはなかなか治らずイライラしている。つまり想像上のOLである
私のファッションセンスは壊滅的である。しかし同じような悩みを抱える人は数しれず、ファッション誌の数がそれを裏付けている
こんなことを考えていると、私は、他人との区別のつけ方がわからなくなってしまった。いったい周りの人々は、自己と他者をどう区別しているのか
たとえば、世界の電気が消え、魔法の力で北半球も南半球も全てが真っ暗な夜になった時、どこまでが自分でどこからが他人か、確認する方法などあるのだろうか。もうそこには、からだしかないのではないだろうか
心や性格といった、精神的個性を、その暗闇の中で信じきれる人はどれだけいるだろう。私は信じきれない。なぜなら私は、特別な人間ではないからである
『バカの壁』のなかで、この精神的個性は否定されていたけど、これは非常に残酷なようで、現実である。私たちは目があり耳があり触覚があるから、他人を区別できているに過ぎない
もし、目が見えなくなってしまったら、私は
自分の心を保てるだろうか。見えてる現在でさえこれなのだから、相当きついだろう
私は他人である
そう考える方が、かえって健康的な気がしてくる