本屋と小鳥
昨日今日と、ヨーカドー内に小鳥が侵入し、警備員の人や正社員の方が虫あみを持って探し回っていた
うちの本屋がお気に入りのようで、その小鳥は、よく店内に来ては好き放題飛び回り、飽きたり虫あみが現れたら、どこかへ去り、そしてまたしばらくすると戻ってきた
昨日はそれほど気にしなかったけれど、今日、改めて小鳥を見てると、どうやら本屋と小鳥は、文学的に非常に親和性が高いことが分かった。小鳥から本屋がどう見えているのか想像出来ないが、人間から見ると、ひたすらに癒しの空間となるのだ
今日イチの癒しは、ぼくがレジでお客さんとお金のやり取りをしていた時だ。小鳥が羽を休めるため、店頭の棚の上で面置きになってるハードカバーの本にとまった。直木賞と本屋大賞をダブル受賞した作品だ。そして、その本が偶然、草原のような装飾だったため、さも小鳥が原っぱに降り立ち遠くを見据えているような光景が広がり、窓がないデパートのはずなのに、辺りに爽やかな叙情の風が吹き、うっかりレジを操作する手が止まってしまった
小鳥は本の内容を理解できない。その小鳥が本を拠り所とし、小首をかしげながら休まり、飛び立っていく姿は刹那的で、美しかった
この小鳥、本の上など安定したところだけでなく、薄さ1ミリにも満たないラミネート加工された紙の上にもとまろうとするため、その場合はうまく着地できず転けてしまうのだが、それも可愛い。レジに居ながらニヤケが収まらない。ちゃんと仕事をしてほしいと店長は思ってただろう
何より助かったのは、この小鳥は鳴かなかった。黙って低い天井を飛び、気ままに立ちどまり、ぼくの心を癒し、誰にも迷惑をかけてなかった
あああ思い出しながら、悶えてしまう。萌えであった
文学的と最初に書いたが、繰り返すが、本の上に小鳥が居て、去っていったそのシーンが、特に文学的であった
こんなもの読んで何になるんだい?と問われているような錯覚になった。ぼくはそれに答えることが出来ない。訳あって最近、本をよく読んでいるが、そしてそれは単純に面白いからだが、その小鳥にぼくの心を透かして見られてるような感覚に陥った。例えるなら、美しい女性に流し目で一瞬見つめられたような、そんな錯覚である
ああそうだ、あの小鳥は女性だった
あまりに美しすぎたのだ。恋に落ちるとは、このことかもしれない。少なくとも今、あの小鳥のことを忘れられる気がしない
ラミネート加工の紙に乗りかけて転けてしまうとか、天然な女性感もある。気ままにぷらりぷらりと歩き、直感的にここと決めたところに留まるのも、似たものを感じずにはいられない
今こうして文章に書き納めてるぼくは、完全に恋に落ちた男だ。一目惚れである。人間相手にときめかず、小鳥にときめくようになってしまった
鳥からすれば訳が分からないだろうけれど、申し訳ないが、ぼくは分かってしまったので、しばらくその横顔を思い出してはドキドキする日々が続くだろう
明日も店内に居ないだろうが、なんならずっと店内に居ないだろうか
もし本屋を開くとすれば、ぜひ小鳥を放し飼いにしたい
ぜひ、多くの人に一度見てほしい。本から小鳥が飛び立つ瞬間を。その美しさを。
先日、本屋で
先日本屋のレジにいると、子どもが母親と一緒に来た
そして唐突に、「ぼくは歴史が好きだからこういう本を読むんです」と宣言して、購入するつもりの本を差し出してきた。本当に歴史の本だったか覚えてない。完全に面食らっていたのだ
隣の母親が、「そんなこと言わなくていいの」と言いながら、財布を出そうとしていた。ルーチンとなっていた工程を終え、「こちら一点で~円になります」と告げた、値段は覚えていない
すると母親は、「うっわ、お前たけーよ」と言いながら、お金を出してきた。すごく落ちつた雰囲気の人だったのでギョッとしたが、その人が口にすると、不思議と、とてもあたたかい言葉に感じた。子どもも怯えることなく、いつもそうであるような表情をしていた。親子の絆が見えた。すごく羨ましくなった
また、ルーチンで商品を袋にしまい始めると、今度は「西武好きですか?」と訊かれた。野球のチームのことだとわかったので、詳しくもないくせに、「いや、広島が好きかな」って答えると、子どもは必死に広島カープのことを思い出そうとしていた。そういう表情だった
母親が助け舟で、「ほら、お父さんが好きなチームでしょ」と言って、ぼくに「夫、広島出身なんです」と教えてくれた
「ファイターズだ」と、子どもは言った。残念、カープだよと答えようと思ったけど、否定することがかなりかわいそうに感じたので、どう答えるべきか迷っていると、「違うでしょ、すいません、ちゃんと教育しておくので」と母親はぼくに謝罪した。教育しておくというのは、もちろん礼儀の話ではなく、野球に関する知識の教育だろうことは言うまでもないが、どうやらぼくが返答に困っている間が、好きなチーム名を間違えたことによる怒りの間だと勘違いされていたのかもしれない
と、話しながら、商品とお釣りを渡し、その親子は去っていった。去るとき既に、広島はお父さんが好きなチームでしょと、教育が始まっていた
ぼくはいったいどんな表情をしていたのだろうか
結構笑顔だったと思う
ああいう子どもが、カリスマなのかもしれないし、ああいう親になるにはどうすればいいのだろうか
ああいう親子がもっと増えれば、素敵な社会になるに違いないと、確信してしまうほどに、光っていた
当たり前のこと
当たり前のことなんですけど、人って老うじゃないですか
あれが、とても怖いんです
たぶん、普通の人は、もちろん老いることは嫌というか、どうせなら若いままでいたいって思うっていうか、そういう若さへの憧れってものを持っていると思うんです。人によっては当然ちがう人もいるでしょうけれど
で、ぼくは老いることに対して、おそらく普通の人よりかなり恐怖している。普通の人は、若さへの羨望を抱きつつ、老いを受け入れていく。けど、ぼくにはどうもそれができない。できないというより老いへの恐怖がありすぎて考えたくない
本屋でバイトをしていると、明らかに言語野がゆるくなっていたり、手が震えていたり、本の名前が思い出せなくなっている人と話をする。若い頃から頭を使っていればそうならないのかもしれないし、またはからだを動かしていればそうならないのかもしれないけれど、本屋に来る高齢のお客さんは、どの人も(特に本が好きそうな人ほど)、老いへの適応が間に合っていないように感じる
自分もああなるのかもしれない
今でさえ、頭をちゃんと使えてない
それが、痴呆症の進行により、より深く生活に苦労することが増えるかもしれない
自分が70歳となり、どうなっているのか、想像すると、ただ生活に制限がかかった男にしかなっていない気がするのだ
孫がいるとか、同じくらいの年齢の奥さんがいるとか、そういう他者在りきの想像がどうもうまくいかず、一人ただ狭い部屋で生き繋いでいる想像しかできない
それがとても怖い
そうまでして生きたいほど、自分は現世に魅力を感じない
老いを楽しめるようなバイタリティを持ちたい
今の生活があと60年ほど続くなんて、ゾッとする