車を支えているのはタイヤ

三日坊主日記です

人生初の寄席に行ってみた!

大学でお世話になった先生が、落語が好きな方であった

口を開けば落語の話で、演劇をしていくなら必ず見なさいと学生に説いていたのだが、どうも踏ん切りがつかず、一度も見ることなく卒業してしまった

 

落語の敷居の高さは何なのだろうか

 

テレビやラジオで、少しだけなら聞いたことがあったが、印象としては、独特の節のある喋り方で昔話をしており、聞き取りにくくつまりおもしろくない、というものであった

それと、なんとなく、マナーに厳しいイメージもあった、いや、マナーというより型というか、常識が多いイメージがあったのである、例えば、話し手が下手を向けばこう意味があるとか、登場人物が新しく登場するときは必ず上手から登場するとか、そういう落語のルールを理解していないと「見てないけない」と思っていたのだ

 

で、虚構の劇団の後輩(先輩でもあるんだけど)が、大の落語好きで、話し手になることもあるという人がおり(扇子を自作できる)、誘われて、遂に今日、寄席に行ってきたのである

場所は新宿の末廣亭、12時開演であったが、お互いの都合で14時から入った

 

まず驚いたのはそのシステムである、寄席では昼の部と夜の部があり、今回観劇したのは昼の部であったが、その時間はおよそ4時間!

4時間の間を、話し手が入れ替わりながら、噺をするのである、一つの噺はだいたい10分前後であったか、短いスパンで、落語(あるいはジャグリング等のパフォーマンス)をする

そして、観客はこの4時間の間、好きな時間に入って好きなときに帰っていいのである、なんなら好きなものを飲み、好きなものを食べていいのだ(撮影と録音だけは禁止)

噺の途中で席を立とうが、止められることはない

そもそも、舞台上だけ照明を照らす演劇とは違い、空間全体が明るい、観客席と舞台とが、限りなく一体となっているのだ

高尚なものを見ているというより、話芸技術を見るという感覚が強い、そして観客を椅子に縛って強制的に見せるのではなく、観客に自由を与えて、その目を向けさせるという力技(つまり技術)を駆使しているのである

通常の演劇では、こうはいかない、観客は見させられ、飲食は当然禁止、そういう環境に長く身を置いていた身としては、その開放感が、逆に空間の一体感を生み、あたたかい笑いを生んでいたように感じた

 

そして、もう一つは、物語のおもしろさである

江戸っ子の話が多く、落語特有の節回しで理解できるか不安であったが、杞憂であった

分からない部分もあるが、なんとなく文脈を理解できるし、そう理解できるように話し手も伝えてくれるのである、例えば聞いたことのない道具の固有名詞が出てきても、身振りのおかげで、それが風呂敷のような包みであることが理解できるのだ

そしてそんな中途半端な理解力でも笑うことができたのは、その噺の持っている普遍的な構造のおかげだと考える

長屋暮らしの男たちが、家賃も払えずしかし楽しく生活している、そんな野郎たちを連れて、大家が春の上野へ花見へ行こうと誘う、しかし大家も金がないから、酒に見立てたお茶と、かまぼこに見立てた大根、卵焼きに見立てたたくあんを持って花見に行くのだが、世間体を気にして酔っぱらったふりを野郎たちにさせる、という話だ

あるいはもっとシンプルに、家を抜け出したいから、声真似のうまい友達に部屋にいるように身代わりを頼んで、その友達が必死に自分の存在を誤魔化そうとする話だ

日本的な絵本のような筋書きである、つまり、足し算でどんどん展開を繋げていくという構造は、噺の途中で理解できなくなってもそこから楽しむことができるし、その構造の持つ笑いたくなるという力が発揮される、

コント、漫才、ギャグマンガは、多くはこの足し算の構造でつくられている、足し算の構造になると、不思議と笑いがこみあげてくるのである、後戻りできなくなった人間はおっちょこちょいな行動をしやすいものだ

もちろん書かれているセリフがおもしろいのもあるが、それはこの構造があってのおもしろさである、それを再認識できたのはとても嬉しかった

 

何より、恩師ともいえる大学の先生の話し方が、話し手の方と全く同じだったのである、独特の節回し、もぞもぞと話し始めてついつい聞いてしまうその話芸、懐かしく、お会いしたくなってしまった

 

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よい一日であった

また行くだろう

ぜひぜひ、行ってみてほしい、これだけ楽しめて3,000円なのは、破格である