地元の祭へ
この街では毎年この季節、通称「椿祭り」が行われる
「椿さん」の愛称で地元民に呼ばれる伊豫豆比古命神社前の通りに屋台が並び、老若男女が参拝する祭である
ぼくが参拝するのはおそらく5年ぶりで、久しぶりだから俄にテンションが上がっていた
まず驚いたのは、参拝通りに流れているBGMが、当時とまったく変わってなかったのである
雅楽のような、いかにも日本の祭であると主張するようなあのメロディーが、未だに流れていたのである
これは5年前どころの話ではない、記憶しているもっとも小さい頃の記憶は、6歳の頃、親に連れられて参拝した記憶がある、そして当時からまったく変わってないのではないかと思われる
耳に音が入った瞬間、心の奥が震えるのを感じた、何も変わっていない、そんなことがあるだろうか、現代社会において、17年も変わらないものがあるだろうか
一方、屋台は少し変わっていた、時代の流れを敏感に察知しなくてはならない的屋は、変わらざるをえないのであろう
東京ケーキというなんの根拠もない名前のカステラは、多くがカステラと名を変えていた(もちろん東京ケーキのままの店もあるし、行きつけだった屋台は今年もあった)
くじ引き屋は景品のゲーム機を、箱の外面だけでなく内面を見えるように展示していた
ぬいぐるみのくじ引き屋が目立ち、多くがディズニーだった、ツムツムの影響だろう
しかし、詰め放題のフライドポテトの屋台には、相変わらず小学生が群がっていた、溢れてこぼれるほどポテトを詰め込んでいた
当たり付きのハンバーグ屋も変わらずあった(なんだそれはと思われるかもしれないが、当たりが出ればハンバーグ串をもう何本か貰えるのである)
そして当時はまったく理解出来なかった椿神社のマスコット的人形が、デザイン的にぐうかわな女の子であることも理解出来た、衝動で買ってしまった
変わって欲しくないものは変わらず、にも関わらず新しいものが見えた、これは非常に贅沢である
世の大抵のものは、変わって欲しくないものが変わり、何も生み出さず衰退していく
帰省する度に、家族で通ったファミレスやコンビニが消え、遊び場だった空間に家が建ち、そして家が消えている、「あれ、ここって何か建ってなかったっけ?」そんな話ばかりである
椿祭りも、いずれはその道を辿るだろう、故郷から、また故郷が消えるのだ
この贅沢が、いつまで続くのか、贅沢を言えば、ずっと続いて欲しいのである
↑不覚にも萌えてしまった