車を支えているのはタイヤ

三日坊主日記です

誕生日はなぜ祝われるのか

誕生日になると、多くの人は祝われる

なぜ祝われるかというと、わざわざ、そうわざわざ、生まれてきたからである

今の私であれば、生まれること(つまり苦しんでまで産道を通って出ること)はしたくない

しかし赤子のときの私はそれをしたのである。偉い。あまりに偉い

この偉さは、月曜日の朝、仕事に出かけるサラリーマンとは比較にならない偉さである。仮に冬、暖かい布団から出て仕事に行くことのストレスが10ストレスだとすれば、5000ストレスぐらいはあるだろう

だから、誕生日は祝われるべきであるし、また、自分が自分に対し、「よく生まれようと思ったな」と褒めてあげるべきなのである

 

 

実際はからだが大きくなって出るしか道がないとか、自画自賛は痛々しいとか、そういうツッコミがあるだろう

しかし考えてみてほしい

からだが大きくなっても、生まれてこない赤ん坊もいる。母親のからだになんら問題がないのにである。こういう赤ん坊は非常に聡明である。実は現世のことを知りすぎているがあまり、出たがっていないのである。地獄とはこの世のことだという哲学者の言葉を、神様から教えてもらっていたのだろう。実に現代人的な赤ん坊である(ちなみにこういう子どもは生まれたとき泣かないことが多い。あまりに先進的な価値観を持っているがあまり、言葉を発するということに合理性を見いだせず黙っているのである。賢者は必要最低限のことしか口にしない)

そんな賢者が、苦しい思いをしてまでも現世に出たのは、勇敢な冒険であり、勇者なのだ。多くの人は、ヒマラヤに登る人を、多くの人は冷めた目で眺めている。そんなことしてなんになるんだ、命の無駄だ、と。しかしその行為に勇気をもらう人は、それ以上に多くいる。そう、我々はヒマラヤに挑戦した冒険者なのである

また、自画自賛が痛々しいというのは、あまりに主観的であるし、自分をほめられない人はかえって憐れである。人は一人で生きていけないが、一人で生きていく努力はするべきである。人のツイートにいいねを押せて、自分にいいねが押せない人は、もっと自分をほめていい。試しに誕生日を祝ってみよう