車を支えているのはタイヤ

三日坊主日記です

「視点」について

今、『サピエンス全史』という本を読んでいます。ベストセラーなので、本屋に行けばおそらくあると思われるのですが、この本が非常に面白いのです

スラスラと読め、かつ、ふと立ち止まると本当に考えたくてたまらなくなるような文章です

書評は、専門家たちによる論述が、いたるブログで書かれていて、学のないぼくには無理なのですが、ひとつ、「視点」という立場でこの本を読むと、更にスラスラと内容が入ってくるのです

ちなみに、漫画版も発売されたようである。ぼくは書店員という立場を悪用し、立ち読みをしたけど、そっちは読まなくてもいいかなと思う

それも、ぼくの「視点」」の話になるんだけど、なんというか、この本の魅力を極めて現実に置き換えてしまったがゆえに、抽象性が消えて、魅力がなくなってしまっているのです

 

 

で、「視点」の話です

多くの人は、この本が、著者の「ユヴァル・ノア・ハラリの視点」で書かれていると思っている。おそらくそれは正しいのだけれど、それだけだと、これは内容は面白いが、文化人類学者の歴史解説書となってしまう

ぼくは、本文中にもその描写があるのですが、「ホモ・サピエンスのDNAの視点」で読んでいます

 

DNAは、5万年前にホモ・サピエンスが生まれてから、ほとんど変わらず(肌の色とかその程度。5万年前にタイムスリップしても子どもを作れます)、未だに続いています

一方人間は、5万年の間に多くの変化がありました。帝国や宗教が生まれ、貨幣や言語が生まれました。インターネットを生み出し、からだを用いないコミュニケーションも可能になりました

そんな変わり果ててしまった人間の、その遍歴を、ずっとほとんど変わらないままのDNAはどう思っているのか、どう見てきたのか

そういうことが書かれている書物だと、ぼくは思うのです

本文の中に、「我々のDNAは、高層ビルの上に住んでいても、依然サバンナで暮らしていると思っているのである」という趣旨の文章があります。それでビビっときたのですが、つまりそういう「視点」の書物なのだと思います

 

 

で、そんな感じで楽しく読んでいるのですが、これを演劇に応用したいのです

つまり観客の「視点」を特殊なものに想定させ、演劇をつくりたいのです

普段の演劇では、観客は、昔でいうコロスのような、無個性な存在となります。はっきり言ってしまえば、何も考えてほしくないのです。こちらが意図したところで笑い、意図したところで泣いてほしいのです

それが、観客をコロスとして扱うということです

コロスとして扱わないためには、観客に何か、役を演じてもらうのが手っ取り早いです

例えば、開演前、アナウンスをするとき、「みなさんは、この劇場にいる間、動物です。お好きな動物でいいです、目を閉じて、あなたの好きな動物を想像してください。その動物の鳴き声はどんなですか? 大きさは、視点の高さは?」などと煽り、その気にさせた状態で芝居を始めるのです。そうすると、その劇は、うまくいけば、コロスではなく、動物園のような雰囲気で、複数の異なる動物たちの視点で劇を見られるので、演劇がより演劇として機能すると思うのです

演者だけでなく、観客と共に演劇を作れるのです

例えば、ライオンになりきっているお客さんは、「そんなめんどくさいやつ噛み殺してやればいい」と物語を批評するかもしれないですし、鯉になりきっているお客さんは、「え、走り回るのってヤバ、足ヤバ」といった演技論のようなものに思考を走らせるかもしれません。ノミだったら、「いやみんなデケエよ」と、物語どころじゃないかもしれません

でも、それでいいと、ぼくは思います

 

 

何か限定した「視点」で演劇を見る。世界を見る

そうすることが、頭を使うということなのかもしれません