車を支えているのはタイヤ

三日坊主日記です

カールが東京から消える

カールといえば、私も小さい頃からよく食べていた、国民的お菓子である

それが、東京から、東日本から、消える

実家は西日本なので、食べようと思うと、そのために帰省するか、仕送りという形で送ってもらうしかない。ひどく面倒くさい

(ちなみに、この時点でAmazon使えば?と思った方は、極めて現代的である。そう、この問題はすべて、Amazonが解決してくれる。悲しむことも悩むことも、すべて徒労である。だから、本題はこんなところではないのだ)

 

そもそも、私は、そんなにカールを食べていただろうか?

 

小さい頃も、親とスーパーに行ってお菓子を買ってもらうときも、選んでいたのは果汁グミかプリッツかガムだった。あるいは、おもちゃ付きのラムネ菓子である。私にとってカールは、選ぶものではなく選ばれるものであった。そして、多くの人が、そうであったのではないだろうか?

きっとカールを東京で見なくなっても、その存在をすぐ忘れるだろう

逆にいえば、今回の報道がなければ、私はカールが消えたことに気がつかなかっただろう

例えば、街から突然建物が消え、あれ、ここに何か建ってた気がする……といった、喪失感を感じることもなく、カールは、東京から消えていただろう。そして子どもが生まれたり(結婚したい)、後輩と話しているうちにカールのことを思い出し、消えていることに気がつくかもしれない

 

カールとはそもそも、その程度の存在であり、それだけの存在だったのだ

 

その程度の存在のものは、この世界に溢れている

道に落ちてるゴミは、その程度のものであるし、自販機の下に転がった100円玉も、その程度のものである

それだけの存在のものも、この世界に溢れている

自分もそうであるし(誰がなんと言おうと)、あなたも、親も、ペットを持っていふ人ならそのペットも、それだけの存在である

しかし、その程度の存在でそれだけの存在のものは、なかなか普段は気が付かない。今回のように報道という形でしか、見えないのかもしれない

あるいは、なくしてから気づくしかないのかもしれない。街の風景が変わってしまったり、平和でなくなったり、そうして初めて気づくのだ

つまり、日々だらだらと、あるいは慌ただしく過ぎていくこの日常が、何よりもその程度の存在であり、それだけの存在であるのだろう

『日常』という神マンガがあり、その中で、特に私が好きなセリフがある

「私たちが日々過ごしている日常は、実は、奇跡の連続なのかもしれない」

こんな素敵で美しすぎるセリフが、あのギャグマンガの中にあることが信じられないが、まさしく、カールがある日常は、奇跡だったのだろう

 

ありがとうカール

今度はこっちから、会いに行くね

でも西日本は遠いから、Amazonでね