車を支えているのはタイヤ

三日坊主日記です

寝相と結婚生活

昨日、寮を卒業した先輩の家に遊びに行った。アニメーターの人で、生活リズムが不規則で、「午前三時に起こして」と言われ、ぼくは寝ずに過ごし、時間になったから起こしたのだけれど、すぐ二度寝三度寝として、その先輩は起きなかった

在寮中からこんな関係だったので、知ってた速報で、別段気にしなかった

しかし、夜が明けてしまうと、ぼくの眠気が限界になった。先輩はまだ寝ている。起こしても起きない

そうして気がつくと、ぼくは先輩の寝ているベットに倒れ込み、気絶するように寝てしまっていたみたいだ

男の一人暮らし、シングルベッド

そこに男ふたりが、お互い気絶するように寝ていた

 

そして昼、先輩は既に目が覚めていて、ぼくを起こしてくれた

そして、いかにぼくの寝相が悪かったのか、教えてくれた

 

まず、イビキがうるさい。これで先輩は起きてしまったらしい

からだが動きすぎる。ゴロンゴロンとしてるうちに先輩を攻撃をしていたようである

寝ながら咳をする。へちっこ向いて咳をするのならいいが、その時のぼくは、わざわざ先輩の顔の方を向き、咳をしたみたいである。先輩は即座に風呂に入ることを決意したらしい

 

これは、男同士だったから、まだ許されていた面があるだろう

もし、これを彼女や奥さんの前でしたら、どうなっていたのだろうか

初めての夜、幸せな時を過ごし、静かに朝を迎えようとした矢先、強烈な寝相である。ロマンも何もない

世間の人は、この問題にどうケリをつけているのだろうか? 素敵だと思ってた恋人が、夜になると暴れん坊になってしまったとき、まだ好きでい続けられるのだろうか?

ぼくは暴れる女の人は大好きなので、問題ない。しかし、そんなモノ好きは多くない気がする

みんな素敵な夜を想像し、しかし寝ている姿は想像しない。それとも好きであれば多少の寝相は気にならないのだろうか? しかし、顔面に咳をされるのは誰だって嫌な気がする

 

くどくど書いてきたけど、つまり、寝相を治したい。矯正したい。素敵な朝を恋人や奥さんと迎えるために

私は特別な人間なのか

私は特別な人間なのだろうか

 

私がほかの人と明らかに違うのは、DNAだけである。それ以外は決して、私は他人との区別はない 

 

私は天才ではない。私の書けるものはほかの人も書けるし、私の考えることは他の誰かも考えることが出来る。センスもも凡庸であり、捻った返しなどできない

私にしか見えないものはない。私の色覚は多くの人とほとんど同じである。視力が悪いが同じぐらいの視力の人は多い

私は常に便秘気味で、お腹が出てる。お尻のかさぶたはなかなか治らずイライラしている。つまり想像上のOLである

私のファッションセンスは壊滅的である。しかし同じような悩みを抱える人は数しれず、ファッション誌の数がそれを裏付けている

 

こんなことを考えていると、私は、他人との区別のつけ方がわからなくなってしまった。いったい周りの人々は、自己と他者をどう区別しているのか

たとえば、世界の電気が消え、魔法の力で北半球も南半球も全てが真っ暗な夜になった時、どこまでが自分でどこからが他人か、確認する方法などあるのだろうか。もうそこには、からだしかないのではないだろうか

心や性格といった、精神的個性を、その暗闇の中で信じきれる人はどれだけいるだろう。私は信じきれない。なぜなら私は、特別な人間ではないからである

バカの壁』のなかで、この精神的個性は否定されていたけど、これは非常に残酷なようで、現実である。私たちは目があり耳があり触覚があるから、他人を区別できているに過ぎない

もし、目が見えなくなってしまったら、私は

自分の心を保てるだろうか。見えてる現在でさえこれなのだから、相当きついだろう

 

私は他人である

そう考える方が、かえって健康的な気がしてくる

 

カールが東京から消える

カールといえば、私も小さい頃からよく食べていた、国民的お菓子である

それが、東京から、東日本から、消える

実家は西日本なので、食べようと思うと、そのために帰省するか、仕送りという形で送ってもらうしかない。ひどく面倒くさい

(ちなみに、この時点でAmazon使えば?と思った方は、極めて現代的である。そう、この問題はすべて、Amazonが解決してくれる。悲しむことも悩むことも、すべて徒労である。だから、本題はこんなところではないのだ)

 

そもそも、私は、そんなにカールを食べていただろうか?

 

小さい頃も、親とスーパーに行ってお菓子を買ってもらうときも、選んでいたのは果汁グミかプリッツかガムだった。あるいは、おもちゃ付きのラムネ菓子である。私にとってカールは、選ぶものではなく選ばれるものであった。そして、多くの人が、そうであったのではないだろうか?

きっとカールを東京で見なくなっても、その存在をすぐ忘れるだろう

逆にいえば、今回の報道がなければ、私はカールが消えたことに気がつかなかっただろう

例えば、街から突然建物が消え、あれ、ここに何か建ってた気がする……といった、喪失感を感じることもなく、カールは、東京から消えていただろう。そして子どもが生まれたり(結婚したい)、後輩と話しているうちにカールのことを思い出し、消えていることに気がつくかもしれない

 

カールとはそもそも、その程度の存在であり、それだけの存在だったのだ

 

その程度の存在のものは、この世界に溢れている

道に落ちてるゴミは、その程度のものであるし、自販機の下に転がった100円玉も、その程度のものである

それだけの存在のものも、この世界に溢れている

自分もそうであるし(誰がなんと言おうと)、あなたも、親も、ペットを持っていふ人ならそのペットも、それだけの存在である

しかし、その程度の存在でそれだけの存在のものは、なかなか普段は気が付かない。今回のように報道という形でしか、見えないのかもしれない

あるいは、なくしてから気づくしかないのかもしれない。街の風景が変わってしまったり、平和でなくなったり、そうして初めて気づくのだ

つまり、日々だらだらと、あるいは慌ただしく過ぎていくこの日常が、何よりもその程度の存在であり、それだけの存在であるのだろう

『日常』という神マンガがあり、その中で、特に私が好きなセリフがある

「私たちが日々過ごしている日常は、実は、奇跡の連続なのかもしれない」

こんな素敵で美しすぎるセリフが、あのギャグマンガの中にあることが信じられないが、まさしく、カールがある日常は、奇跡だったのだろう

 

ありがとうカール

今度はこっちから、会いに行くね

でも西日本は遠いから、Amazonでね

本の匂いが! 好き!!!!!

本の匂いが好きだ

新品の匂い、古書の匂い、古本の匂い、それぞれ違う匂いを醸し、その本が過ごしてきた歴史を感じる。

新品の本はやはり綺麗で、まだ何者でもない。古書はどれだけの本棚を回ってきたのか、どれだけの人に触れられてきたのか、どれだけの視線を浴びてきたのか、匂いを通して感じる。古本は、自分の居場所はどこなのか、彷徨っているような匂いがする

正直、ぼくは新品の匂いが好きである。本を買い、家に着いて読み始める前に、まず本の匂いを嗅ぐ(古書だろうと嗅ぐ)。一度吸うとそのページは新品の匂いではなくなってしまうので、すぐに別のページに移ってまた匂いを嗅ぐ。これを10回ほど繰り返し、ようやく最初の文章を読み始めるのだ

ちなみに、当然だが、紙の種類によっても匂いは変わる。文庫に使われる、ツルツルした紙は、フワッとした匂いで、ワンピースなどのマンガに使われている紙はモワッとした匂いである

傍から見ると、あやしい人間である。ひたすら本に顔を突っ込んでスウウウスウウウと鼻を(というか顔全体を)震わせているのだから。

更に、ぼくはこれを、少女漫画でも同人誌でも行うので、その場合は、尚更やばい人間である。美少女の匂いを何とか嗅ごうとする変態にしか見えない。実際、寮のロビーでこの行いをしたとき、「菊池さん何してるんですか!?」と言われたことがある。何してるって、本の匂いを嗅いでいるだけだ。そう答えても、「いやーキモイっす」と言われた。おそらく彼の感性が正しいのだろう

しかし、そんな世間の目を気にする必要を感じなくなるぐらい、嗅ぐという体験は止められないのである。ヤメラレナイトマラナイ

だから、もし、本の匂いをちゃんと嗅いだことがない人は、ぜひ嗅いでみてほしい!

新品の、まだ人の手が触れてない、純粋な紙とインクの匂い……いや香りを、感じてほしい

ぼくは電子書籍は苦手だが、その理由にこの匂いがある

電子書籍に匂いはない!

無臭無臭無臭!!!!!!!

これがどうしても許せないのだ!!!!!!!!!!!!!

もし、科学の発展により、電子書籍でもほんの匂いを再現できるのなら、買っても良いという気持ちになってくる。利便性云々の問題ではない。この匂い、ただ一点の問題なのである

本を読んでいるとき、無性に匂いを嗅ぎたくなることが結構な頻度である。その場合、どれだけ物語が盛り上がっていようと、匂いを嗅ぐので、読書スピードは遅くなる。そう考えると、電子の方が集中して本を読めるのかもしれない

それでもなお、ぼくは匂いを嗅ぎたい!!!

 

真っ白なページから香るその匂いは、甘く(比喩ではない)、やさしく(包まれるよう)、脳神経がとろけるような錯覚(事実)に陥る

この世界に本の匂いを嗅ぐことに特別な思いを寄せない人ばかりだと考えると、ぼくの気持ちは憂いてしまう。何故、嗅がない?

現代世界は、匂いにあふれている。柔軟剤の匂い、シーブリーズの匂い、ファブリーズ、香水……そこにたった一つ、新しい匂いが加わるだけである

さあ、あなたの手元にあるその本

一度嗅いでみてほしい

きっと、より深く、その本の世界に浸れるはずだ

読書は目でするのではない

鼻でするのだ

戦争の分類

今日、お風呂に入りながら、戦争について考えていた

戦争に関する本は読んだことがないので、常識なのかもしれないけれど、戦争は大きく3つに分類できるような気がした

1 健康的な戦争

2 社会的な戦争

3 不毛な戦争

この3つである

 

健康的な戦争とは、水や食料を奪い合う戦争のことである。水と食料は、無くなれば死に直結する重要な要素である。だから、それを奪い合うことは、健康的であり、ある種納得のいく戦争である。納得という言い方が悪いが、要は、本能的に起こってしまう戦争で、仕方の無いものなのかもしれない

社会的な戦争とは、たとえば油田を奪い合う戦争である。レアアースや領土問題も、これにあたる。これらは無くても死なないが、あることによりつうかという社会的ツールを得て、間接的に死を免れる(=これらがないと死んでしまう)。だから、少しではあるが、戦争に納得がいく。もちろんこんな戦争はなくていい。あってほしくないし、してほしくないし、したくないし、協力もしたくない。けど、社会というシステムができてしまっているので、続く限り、おそらく無くならない

不毛な戦争とは、宗教による戦争である。他2つに比べて、これは本当にわからない。なぜなら、宗教などなくても人は死なないからである。つまり、人間には暴力衝動があり、それが死に接すると発動してしまう他2つと違い、これは完全なエゴである。

 

地球上の一部地域で、紛争が起こっているが、これは実は、納得がいくのである。勝たなければご飯が食べられず死ぬからである。しかし、宗教戦争だけは、何度聞いても気分が悪い。自爆テロというものがあり、戦争行為だが、死ぬ時その人は、何を思って死ぬのか。思想で死ねるなんて、はっきり言って頭の中がお花畑である。死ぬことによりお金がもらえて、家族に届けられるのなら、理解できる。そうなるしかなかった人生に同情と、切なさと、怒りを感じる。しかしそうでもない人は、どれだけ徳のある人であっても、筋肉のある人であっても、自分に内蔵があり、骨があり、どうしようもない肉体があるということを忘れた存在である。人間は頭だけで構成されているのではない。それを忘れたとき、人間は、不毛な戦争を始めるのである

 

戦争は嫌だ

不毛な戦争は最も嫌だ

児童文学

久しぶりに、児童文学を読んだ

バイトでたまたま目に付いたもので、完全に直感だったけれど、アタリだった!

王道の展開(ペアもの)で、サイアクだった主人公が、全く正反対の相手と共に時間を過ごすうち、仲良くなっていくだけの話なんだけど、軽妙なタッチで読みやすくてよかった

もしかしたら、こういうものを、ずっと書きたかったのかもしれないね
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