実存と愛
人は孤独な生き物だから、愛を求める
その愛の質が、どうやら悪いらしい
そういう本を今読んでます
見えないもの
具体的なものしかわからない人間です
抽象的なことは、一つ二つなら掴めますが、それ以上になると頭のキャパが追い付きません
数学の話
日本の数学(算数)教育は、今がどうかは分からないけれど、ぼくが生徒だったときは小学校一年生から高校三年生にかけて、つまり12年間かけて、微分積分を理解させるためのカリキュラムでした
ちなみにぼくは商業科だったので(?)微分積分習ってません、いいのかこれで……
で、数学が得意な生徒とそうでない生徒は、なぜ生まれてしまうのかということを考えてみました
数学は、ものすごく抽象性の高い学問なんです。数学が芸術や哲学と仲良しなのは、いずれも抽象的に考える、あるいは表現する分野だからです
しかし、小学校で習う最初の算数は、「リンゴが3つ、ミカンが2つ、合わせていくつ?」という、具体性の算数なんですね。もちろんこうしないと、小学生は理解できませんので、この設問が間違っているとは思いません、取っ掛かりとしては最適な方法であると思います
算数で躓きがちな部分は、分数の割り算とだと思います。分数の割り算は非常に抽象性が高く、一年生のときに習う「リンゴ」の例えだと、『おもひでぽろぽろ』のおねえさんが説明できなかったみたいに、「とにかく分子と分母を入れ替えるの!」となってしまいます。割り算は抽象性の高い計算です。「18という数字の中に2は9個入っている」というのが「18÷2=9」です。この問題も、取っ掛かりやすくするため、具体性を用いて始まります。「18個のチョコレートを2人で分けると一人当たり何個食べられますか?」といった具合です。
問題は、分数です。分数は、抽象的な数字です。数学のためにつくられた数字という印象があります(√平方根もこれに当たります。ピタゴラスの定理がなければ、こんな数字は生まれなかったかもしれません。素数や円周率もこれに当たります)。ある種、分数の割り算によって、小学生は初めて抽象的な計算を抽象的な数字で行うのです。このことを、生徒はもちろん先生もきちんと理解していない。だから、具体的なまま計算させようとする。
そうして理解できぬまま、とにかくひっくり返すということだけを覚えて、成長していきます。微分積分は完全に抽象の数学の世界なので、当然理解できるはずがありません
カリキュラム的には抽象性を理解させつつ、つまり算数から数学に移行させつつ進んでいるのですが、実際は、具体性的な算数のまま高校三年生になってしまっているのです。そのターニングポイントとなるのが、中学生の三角形合同の証明と動く点Pです
合同の証明で数学でなく算数のままの生徒は、「いや見たらわかるじゃん」「重ねたらわかるじゃん」と言います。これにきちんと答えられる先生も大人も、居ないのが問題です。そして証明の問題になったとき初めて、「客観性」や「定義」「定理」といった、科学的な要素(つまり数学を成立させるための要素)が登場します。しかし算数脳のままの生徒が、こんな説明で納得できるわけがありません。ゆっくり進んでいたはずの数学化は、相変わらず算数のままなのですから
点Pも同じです。「なんなの? その動いてるP」と言われます。似た問題で、「湖を違う速度で1周する兄弟」問題も、「そんな兄弟いるわけないじゃん」となってしまいます。後者の問題は、出題する側も算数脳です。
ターニングポイントとはつまり、中学生のとき、算数から数学へ移行できた生徒が、数学が得意となる生徒となるのではないかと思います。具体的なものだけでなく、抽象的なものを考えることができるので、つまり理系となっていくのではないか
そうして遂に、微分積分を理解できる高校三年生が生まれるのではないか。ゆとりが問題なのではなく、カリキュラムと実際の教育現場のズレが問題なのです
詰め込み教育の時代は、算数のままでも、無理やり公式に当てはめさせて、根性で解かせていた、あるいは、多くの生徒を、きっちり数学化させていたのどちらかであったと思います。日本人がまだ追い求めている、頭の良かったころの日本です。まあぼくの直観だと、前者な気がしていますが……
話はずれますが、偏差値が高い生徒は2種類いて、つまり公式に当てはめまくる根性型と、抽象的に物を捉えることができる理解型に分かれると思います。勉強できても仕事で役に立たない(分野が違うから当たり前です)と言われる人は、もしかすると、根性型なのかもしれません。地頭が良いと言われるのは、理解型なのかもしれません。要検討です
ぼくは数学がとにかく苦手で、算数のまま今の歳になりました
もし数学で躓いている生徒がいれば、うまくいくとは思えませんが、ここに書いたぼくなりの考えを伝えられたらと思います
そしてここまで書いて、数学に限らず、国語も抽象の学問だと気づきました
もうだめだあ……
実存主義?
最近、目の前のバスやPS4を眺めていると、どうしてこんなものが存在するんだろうと考えてしまう
なぜ、宇宙というものが誕生し、人間が生まれ、存在しているんだろうってことまで考えてしまう
存在できているんだろうって感じ
バスや、宇宙、そして私の、存在の根拠がなにも分からない
私は何の土台の上に立っているのか
地につけている足の、地とはなんだ?
マンガを買う
同人誌を買う
ゲームを買う
けど、買ってきた自分の好きなものが、10年後、残っている気がしない
手元にはあるだろうけど、なんだか形骸化しているような気がする
私の人生もそうなっている
地面のことも分からず、自分のことも分からない
今だけしか分からない
今、私のもとに具象としてある物しか分からない
いつか死ぬということが分からない
存在の根拠、何かが未来へ向けて地続きに繋がっているということ、これが分からない
生きるという行為は、落ちたら死んでしまう崖から崖を、綱渡りで渡るようなものだと、そしてそれをずっと続けることだと思っていた
慎重に、そして確実に、前へ向かって歩いていくものだと
でも実際は、綱のような細く危ない物で渡るのではなく、鉄筋コンクリートでつくられた、安全性抜群の、幅が50メートルも100メートルもあるような物でわたるような感覚なのだ
どうしてこんな物があるのか理解できない
誰が、いつ、どうして、どのようにして、つくったのかが知りたい
知らないと怖くて渡れない
平気で渡っていく人々が理解できない
マグリットの絵に惹かれるのは、これが原因か
空中に浮かぶ巨大な石は、おもしろさと供に私の存在を脅かす。その絵のおかしさを証明できても、自分の存在の証明はできない
どこからこの欲求が来るのか分からないが、ものすごくセックスをしたい
手を握る、抱きしめられるというだけで底知れぬ安心を感じる
なんと心弱い人間になってしまったことか
無駄なものだけつくっていたい
もう意味あるものは嫌だ
しんどい
廃墟とか
校庭の隅にあるぼろぼろの車とか
納屋にしまわれている絶対に使いっこない鍬とか
そういうものをつくりたい
虚構も現実も要らない