車を支えているのはタイヤ

三日坊主日記です

実存と愛

人は孤独な生き物だから、愛を求める

その愛の質が、どうやら悪いらしい

 

そういう本を今読んでます

スマホを

スマホをリフレッシュ品と交換しました

デレステをインストールしてません

しないでおこうかなとも思います

見えないもの

具体的なものしかわからない人間です

抽象的なことは、一つ二つなら掴めますが、それ以上になると頭のキャパが追い付きません

 

修理とは……

スマホを修理に出していました

イヤホンジャックの調子がどうしても悪く(ヘッドホンの右側からしか音が出ない)、治してほしく修理を依頼しました

 

で、今日戻ってきたのですが、直ってませんでした……

店舗で確認して、担当の人も困惑気味でした

更に、壊れてなかったはずのSDカード読み取り部も壊れていて、修理に出したはずなのにより壊れて帰ってくるという謎現象になりました

店舗から工場にきちんと連絡がいっていたようなので、工場側の問題みたいですが、非常に残念……

結局、リフレッシュ品との交換を選択しました

時間の無駄感すごい……

数学の話

日本の数学(算数)教育は、今がどうかは分からないけれど、ぼくが生徒だったときは小学校一年生から高校三年生にかけて、つまり12年間かけて、微分積分を理解させるためのカリキュラムでした

ちなみにぼくは商業科だったので(?)微分積分習ってません、いいのかこれで……

 

で、数学が得意な生徒とそうでない生徒は、なぜ生まれてしまうのかということを考えてみました

 

数学は、ものすごく抽象性の高い学問なんです。数学が芸術や哲学と仲良しなのは、いずれも抽象的に考える、あるいは表現する分野だからです

しかし、小学校で習う最初の算数は、「リンゴが3つ、ミカンが2つ、合わせていくつ?」という、具体性の算数なんですね。もちろんこうしないと、小学生は理解できませんので、この設問が間違っているとは思いません、取っ掛かりとしては最適な方法であると思います

算数で躓きがちな部分は、分数の割り算とだと思います。分数の割り算は非常に抽象性が高く、一年生のときに習う「リンゴ」の例えだと、『おもひでぽろぽろ』のおねえさんが説明できなかったみたいに、「とにかく分子と分母を入れ替えるの!」となってしまいます。割り算は抽象性の高い計算です。「18という数字の中に2は9個入っている」というのが「18÷2=9」です。この問題も、取っ掛かりやすくするため、具体性を用いて始まります。「18個のチョコレートを2人で分けると一人当たり何個食べられますか?」といった具合です。

問題は、分数です。分数は、抽象的な数字です。数学のためにつくられた数字という印象があります(√平方根もこれに当たります。ピタゴラスの定理がなければ、こんな数字は生まれなかったかもしれません。素数や円周率もこれに当たります)。ある種、分数の割り算によって、小学生は初めて抽象的な計算を抽象的な数字で行うのです。このことを、生徒はもちろん先生もきちんと理解していない。だから、具体的なまま計算させようとする。

そうして理解できぬまま、とにかくひっくり返すということだけを覚えて、成長していきます。微分積分は完全に抽象の数学の世界なので、当然理解できるはずがありません

カリキュラム的には抽象性を理解させつつ、つまり算数から数学に移行させつつ進んでいるのですが、実際は、具体性的な算数のまま高校三年生になってしまっているのです。そのターニングポイントとなるのが、中学生の三角形合同の証明と動く点Pです

合同の証明で数学でなく算数のままの生徒は、「いや見たらわかるじゃん」「重ねたらわかるじゃん」と言います。これにきちんと答えられる先生も大人も、居ないのが問題です。そして証明の問題になったとき初めて、「客観性」や「定義」「定理」といった、科学的な要素(つまり数学を成立させるための要素)が登場します。しかし算数脳のままの生徒が、こんな説明で納得できるわけがありません。ゆっくり進んでいたはずの数学化は、相変わらず算数のままなのですから

点Pも同じです。「なんなの? その動いてるP」と言われます。似た問題で、「湖を違う速度で1周する兄弟」問題も、「そんな兄弟いるわけないじゃん」となってしまいます。後者の問題は、出題する側も算数脳です。

ターニングポイントとはつまり、中学生のとき、算数から数学へ移行できた生徒が、数学が得意となる生徒となるのではないかと思います。具体的なものだけでなく、抽象的なものを考えることができるので、つまり理系となっていくのではないか

そうして遂に、微分積分を理解できる高校三年生が生まれるのではないか。ゆとりが問題なのではなく、カリキュラムと実際の教育現場のズレが問題なのです

詰め込み教育の時代は、算数のままでも、無理やり公式に当てはめさせて、根性で解かせていた、あるいは、多くの生徒を、きっちり数学化させていたのどちらかであったと思います。日本人がまだ追い求めている、頭の良かったころの日本です。まあぼくの直観だと、前者な気がしていますが……

話はずれますが、偏差値が高い生徒は2種類いて、つまり公式に当てはめまくる根性型と、抽象的に物を捉えることができる理解型に分かれると思います。勉強できても仕事で役に立たない(分野が違うから当たり前です)と言われる人は、もしかすると、根性型なのかもしれません。地頭が良いと言われるのは、理解型なのかもしれません。要検討です

 

 

ぼくは数学がとにかく苦手で、算数のまま今の歳になりました

もし数学で躓いている生徒がいれば、うまくいくとは思えませんが、ここに書いたぼくなりの考えを伝えられたらと思います

そしてここまで書いて、数学に限らず、国語も抽象の学問だと気づきました

もうだめだあ……

実存主義?

最近、目の前のバスやPS4を眺めていると、どうしてこんなものが存在するんだろうと考えてしまう

なぜ、宇宙というものが誕生し、人間が生まれ、存在しているんだろうってことまで考えてしまう

存在できているんだろうって感じ

バスや、宇宙、そして私の、存在の根拠がなにも分からない

私は何の土台の上に立っているのか

地につけている足の、地とはなんだ?

 

マンガを買う

同人誌を買う

ゲームを買う

けど、買ってきた自分の好きなものが、10年後、残っている気がしない

手元にはあるだろうけど、なんだか形骸化しているような気がする

私の人生もそうなっている

地面のことも分からず、自分のことも分からない

今だけしか分からない

今、私のもとに具象としてある物しか分からない

いつか死ぬということが分からない

 

存在の根拠、何かが未来へ向けて地続きに繋がっているということ、これが分からない

生きるという行為は、落ちたら死んでしまう崖から崖を、綱渡りで渡るようなものだと、そしてそれをずっと続けることだと思っていた

慎重に、そして確実に、前へ向かって歩いていくものだと

でも実際は、綱のような細く危ない物で渡るのではなく、鉄筋コンクリートでつくられた、安全性抜群の、幅が50メートルも100メートルもあるような物でわたるような感覚なのだ

どうしてこんな物があるのか理解できない

誰が、いつ、どうして、どのようにして、つくったのかが知りたい

知らないと怖くて渡れない

平気で渡っていく人々が理解できない

 

マグリットの絵に惹かれるのは、これが原因か

空中に浮かぶ巨大な石は、おもしろさと供に私の存在を脅かす。その絵のおかしさを証明できても、自分の存在の証明はできない

 

どこからこの欲求が来るのか分からないが、ものすごくセックスをしたい

手を握る、抱きしめられるというだけで底知れぬ安心を感じる

なんと心弱い人間になってしまったことか

 

無駄なものだけつくっていたい

もう意味あるものは嫌だ

しんどい

廃墟とか

校庭の隅にあるぼろぼろの車とか

納屋にしまわれている絶対に使いっこない鍬とか

そういうものをつくりたい

虚構も現実も要らない